darling

夏を呼ぶ(k)

 夏休み開始一週間前の日曜日。今日も今日とて練習試合を終えて、部員全員スタミナ切れで至る所に倒れ込んでいる。今年の夏は本当に暑い。毎年暑いことに変わりはないのだけど、毎年体感記録は更新し続けている気がしてならない。
 そんな中、体育館の隅っこで広がるじめじめした空気。そうっと目を逸らすものの、時折聞こえてくる悲痛な声に思わず目を向けてしまう。いやあ、こればっかりは。どうしようも。そんなふうに苦笑いをこぼしながら、無視しきれずじめじめした空気に混ざる修羅の道を選んだ。

「泣きたい……」
「泣きたいのはこっちですよ」
「木兎、そこ綴り間違ってるぞ」
「泣く……」
「泣いてもいいからとりあえず問題解けよ~」

 金曜日に返却された期末試験の結果、バレー部で唯一木兎だけが追試を受けることになった。木兎は決して馬鹿ではないのだが、こう、詰めが甘いというかなんというか。ギリギリ赤点を取ってしまい、英語の追試が決定している。ちなみに追試は来週の金曜日に行われるのだが、ここで合格点を取らないと、まあ、夏休み中の補習授業が決定するのだ。その期間は夏休みに入った最初の一週間。つまり、梟谷グループで行う毎年恒例の合同合宿にモロ被り、というわけだ。

「主将が補習で不在はだいぶ情けないので勘弁してください」
「分かってる……」
「おい、文法が違うぞ」

 二年生の赤葦にまで勉強を見てもらう主将って、大丈夫か? 苦笑いのまま「大丈夫かよ」と声をかけると、木兎ががばっと顔を上げて俺を見た。縋るように「なんで木葉は赤点ないんだよ!」と喚かれた。失礼な。俺は高校に入ってから赤点なんか一回も取ったことねーわ!

「器用貧乏は勉強でも健在だな」
「なんかすっごい馬鹿にされた気分……」
「なんかコツとかねーの? 木葉暗記得意じゃん。木兎に伝授してやれよ」
「気合い。根性。執念」
「精神論じゃん!」

 そんなふうにわーわー騒いでいるところにマネージャー陣が戻ってきた。「うわ、勉強してる」と雀田が笑いながら木兎のノートを覗き込む。白福も「あらら~」と笑っている。笑い事ではない。結構大ピンチだぞ、これ。そんなふうに言っているとが苦笑いをこぼした。そんなを見て赤葦が「はなんかいい勉強法ないの」と声をかける。

「ひたすら書きます。あと、行き詰まったらぐるぐる歩きながら覚えますね」
「あー、なんか動きながら覚えるのいいって聞いたことある」
「木兎向いてるんじゃねーの?」

 木兎が教科書を持ったまま立ち上がる。じっと見たままぐるぐるその辺りを歩いて、少ししてからこっちを見た。真顔。やっぱだめか。全員がそう思ったとき、木兎が「これいいかも」とやけに真面目な声色で言った。
 それからしばらく、体育館をぐるぐる歩きながら木兎はひたすらに英単語を覚えていく。どうやら本当に向いていたらしい。確かに、元々じっとしていられないタイプのやつだ。ぴったりの勉強法かもしれない。ただ、本番の試験ではじっとしてなきゃだめなわけだが、大丈夫か? そんなふうに心配になってしまった。

「これ、本番に全部忘れて真っ白になる、とかにならないですかね」
「俺も同じこと考えてたわ」
はどう? 本番はじっとしてなきゃだめなわけじゃん。大丈夫なの?」
「わたしは一回覚えたら大丈夫なほうですけど……そう言われてみると確かに……」

 木兎が戻ってきた。教科書を閉じてから先ほどまで座っていたところにまた座る。妙に静かで不気味だ。全員が様子を窺っていると、木兎は小さく頷いた。

「これいい!」
「……覚えてるんですか、本当に」
「なんかすげー記憶に残りやすい! 気がする!」
「まあ気がするだけでもいいじゃん。その調子でいけいけ」

 猿杙が笑って追試組に出されているプリントを渡した。木兎はやけに上機嫌に向き合うと、確かに先ほどと違って圧倒的に綴りの間違いは減っている、ように思える。文法が若干違うところもあるが先ほどよりはまだマシだろう。まあ、これが続けばいいのだが。俺と同じく半信半疑の赤葦が「まあ、できればその調子でお願いします」と若干不安げに呟いた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――翌週、金曜日。

「やばい! ! 見て見て!」

 体育館に駆け込んできた木兎が持っているのは、どうやら追試の答案用紙。呼ばれたがそれを覗き込むと、ぱあっと顔を明るくさせた。お、追試合格したか。よかったよかった。そんなふうに軽い気持ちで「よかったじゃん」と声をかけて俺も答案用紙を覗き込んだ。

「……は? え、木兎が……九十二点……だと……?」
「俺人生ではじめて九十点台取った!」
「は? え? マジで?!」
「どうしたどうした」

 俺が騒いでいるのを聞きつけた三年生たちが集まってくる。皆一様に木兎の答案用紙を覗き込んで悲鳴にも似た声を上げていく。赤葦も覗き込むと「夢ですか?」と驚愕の表情を浮かべていた。

「マジでありがとな! 俺これからうろうろしながら勉強する!」

 この一週間、木兎はかなり頑張っていた。いつもなら勉強など忘れて自主練に勤しむ時間も、休み時間も、帰り道も、信じられないほどしっかり勉強をしていた。絶対に合同合宿欠席、なんて事態は嫌だというのがひしひしと伝わってくる頑張りようだった。だから、不合格にはならないだろうとバレー部全員が予想はしていたが、まさか、こんな点数を取ってくるなんて、誰が想像しただろうか。

「すごいです! さすが木兎さんですね!」
「だろ~?! 俺だってやればできるんだぜ!」

 きゃっきゃとと木兎が喜ぶ。この二人、前々から思ってたけどなんか兄妹みたいなんだよな。見ていて微笑ましい。赤葦も同じように見ていたようで、「とりあえず山は越えましたね」とほっとしつつ少しだけ笑った。

「これで心置きなく合宿に参加できますね」
「おう! みんなありがとな!」

 なんと晴れやかな笑顔だろうか。本当、木兎って無意識に人を湧かせる何かがあるんだよな。じめじめした空気をきれいさっぱり晴れさせるような表情だ。梅雨を忘れさせるような爽やかさがある。広がる夏空の下、さらに夏を呼び込むみたいだ。そんなことを思った。