darling

クチナシ

※主人公視点です。


「あ、遅かったじゃん二人とも……って、ちゃんどうしたの? もしかして怪我?!」

 駆け寄ってくる足音が聞こえる。かおりちゃんの声だったのでかおりちゃんと、もう一つの足音は雪絵ちゃんのものだろう。とてもじゃないけれど二人の顔を見られなくて、顔を上げられない。雪絵ちゃんが「大丈夫?」と心配そうに声をかけてくれるけど、なんと返せばいいか分からない。どうしよう。そう思いつつ木葉さんの服をきゅっと握ってしまった。

「大丈夫大丈夫。そういうんじゃないから」

 木葉さんの声。ぽんぽん、と軽く背中を叩かれた。黙ってていいよ、というサイン、と勝手に解釈して黙っておく。木葉さんが立ち止まると同時にかおりちゃんたちの足音が止み、その後ろから複数の足音が聞こえてくる。花火が打ち上がる音。もう帰らなきゃいけない時間だ。十五分後に来る電車に乗って帰るつもりだから、あと五分で駅に向かい出さないと間に合わない。なんて切り出そうかぐるぐる考えていると、「あ」というかおりちゃんの声がさっきより近くで聞こえた。雪絵ちゃんが「なに~?」と不思議そうにかおりちゃんに問いかけるけど、かおりちゃんは「ふ~ん」と意味ありげな声で笑ったように聞こえた。

「なるほどね~?」
「え、なになに? なんなの~?」
「そろそろ帰る時間なんでしょ? しっかり送ってきなよ~?」

 ばしっと木葉さんの肩辺りを叩いたらしい音がした。「いってーな!」と木葉さんが苦笑いをこぼしてから、わたしを抱え直すように体を動かす。「怪我じゃないんですか」と赤葦の声が聞こえて、先輩たちの声もいくつか聞こえてきた。急に木葉さんがくるっと身を翻す。たぶんわたしの顔が見えないように避けてくれたのだと思う。バレー部の輪から少し離れるように動いてから「悪いけど、送ってくわ」と言う。木兎さんの「え、もう帰んの?」という声が聞こえたけど、その瞬間にかおりちゃんが「了解」と木兎さんの声を塗り潰すように言った。木兎さんはかおりちゃんの様子に「え? 何?」と不思議そうだったけれど、他の人たちは「あ~」と声を上げていた。

「また学校でね~!」
「心配すぎるけど気を付けて~!」
「ちゃんと送れよ~」
~そいつ頼りないけどいいやつだからよろしくな~」
「ひどい言われようなんですけど!」

 けらけら笑って「じゃあな」と木葉さんがくるりと方向転換して歩き始める。小さな声で「おつかれさまです」と挨拶したら、ちゃんと聞こえたみたいで赤葦の「お疲れ」という声が聞こえてきた。

「おめでと~お幸せに~」

 雪絵ちゃんのその言葉に木兎さんが「エッ?! 付き合ったのか?!」と一人だけ驚いていた。それに全員が「気付くの遅えよ!」とツッコミを入れると、どっと笑いで溢れる。その笑い声が小さくなっていく。お祭り会場から出て、駅がある方向に曲がった瞬間、賑やかな明かりや声が途端になくなった感覚。それと同時に木葉さんが「立てそう?」と明らかに笑いをこらえた声で聞いてきた。

「立てます……」
「それはよかった。…………ふっ」
「やっぱり立てないです!!」
「もう下ろします~木葉さん号終点です~」

 がくっと体が揺れる。あれよあれよという間に足が地面についてしまった。木葉さんの肩にしがみついていた手を優しく剥がされると、木葉さんの笑った顔が見える。両手を掴まれたままゆっくり目を逸らすと、じんわりまた暑くなってきた。恥ずかしい、とか、どうしたらいいか分からない、とか。いろんな感情がぐるぐると体中を巡っていることだけは分かる。触れられている手が自分のものじゃないみたいに動かない。

「電車間に合う?」
「……はい」
「よし、じゃあ出発しましょ~」

 木葉さんはぱっと手を離して、ふいっと顔を前に向けて歩き始めた。すたすた歩いていくのでその一歩後ろをそうっとついて行く。なんか、変だ。わたしの感情が爆発しそうなほどごちゃごちゃしているのもあるけど、木葉さんも変に感じる。ぎこちない、というか。
 しん、と静かな空気のまま駅の近くのコンビニ前まで来た。人工的な明かりが目に痛いほど眩しい。信号待ちをしている間も何を話せばいいのか分からなくて話題を探してしまう。何か言ったほうがいいのかな。このまま黙っていたほうがいいのかな。どっちが良いのか分からなくて頭がぐるぐるしてくる。でも、不思議と、ちっともそれは、嫌な感じはしなかった。

「堪え性ないなって怒ってくれていいよ」
「えっ」
「全国制覇してなくてすみません」

 こっちを見た。木葉さんは困ったように笑いながら頬を少し指でかく。そうしてまた「ごめんな」と謝ったけれど、どこか照れくさそうに見えた。

「怒ってます、ので、大会がんばってください……」

 絞り出したような声になった。情けない。そう恥ずかしくなっていると、木葉さんは面食らったような顔をしてから吹き出した。歩行者信号が青になっているのにも気付かず、その場でお腹を抱えて笑った。木葉さんは「はー、苦し」と笑いすぎて出た涙を拭きながら、ちらりとわたしを見る。

「厳しい後輩だな」

 そう笑いながら「精一杯がんばりますので許してください」と言って、わたしの手をそっと握る。
 さらさらと揺れる髪がとてもきれいだと、あのとき強烈に印象が残った。自分は何一つ悪くない上に助けてくれたのに、心から申し訳なさそうに謝ってくれることが不思議でたまらなかった。わたしなんか助けても、わたしなんかに声をかけても、この人には何一ついいことはなかったのに。バレー部に入部してはじめての練習試合で、遅刻したら怒られるって分かっていたはずなのに。それでもこの人は、人波を縫ってわたしを見つけ、地面についてしまった汚い手を取ってくれた。周りの人は誰一人として転んでいないのに転んでしまったわたしを、ドジだと、のろまだと笑わなかった。
 一度溢れ出た感情は全身に滲みこんで、取り返しのつかないことになっていた。閉じこめられて不安で不安で溜まらなくて、もう泣き出すほど子どもじゃないのに泣いてしまって。それでもこの人は笑わなかったし、治まるまで隣にいてくれた。名前を付けてしまった気持ちは体の奥の奥に隠してしまったけれど、それでも毎日大きくなっていくばかりで。この人が笑うだけで、名前を呼んでくれるだけで、いつも隠し場所の蓋が開きかけてしまって。
 できなかったことができること、それがどんなに嬉しいことなのか、きっとこの人は知らない。アンダーとオーバーのどちらもうまくできなかったこと。逆上がりができなかったこと。あの日助けてもらったことのお礼が言えなかったこと。あの日くれたタオルを返せなかったこと。それができたとき、この人のおかげで全部できたとき、わたしがどれだけ嬉しかったか、きっと知らない。知らないけれど、分かってるんじゃないかって思うほど、一緒になって喜んでくれた。
 かっこ悪くて情けないところばかりのわたしを見ても、呆れたり困ったりしなかった。いつも迷惑かけてばかりなのに、わたしが謝ると怒る。むっとした。だって、この人は自分が悪くなくても謝るのだから。タオルを貸してくれたのに、絆創膏を持っていなかったからって謝るくせに。見つけてくれたのに、時間がかかってごめんって謝るくせに。好きって、言ってくれたのに、わたしが動揺してしまっただけで謝るくせに。わたしが悪いから謝っているのに、「いいから」と笑うのだ。
 はじめて会ったときから、あの助けられた日から、わたしはこの人をずっと探していた。……いや、そうじゃない。ずっとずっと昔、みんながわたしをドジでのろまだと馬鹿にして笑っていた頃から、ずっと、探していたんだ。子どものころに、いつかわたしにも童話に出てくるような王子様が手を差し伸べてくれると、本気で信じていた。そんなものはまやかしで現実にはいないんだって分かってからも、どこかで探していたと思う。それがきっと、この人だったんだ。
 もしこれを運命だと言っていいのなら飛び跳ねて喜んでしまう。けど、これが運命ではなくても、飛び跳ねて喜んでしまう。目の前にこの人がいるだけで、この手を取ってくれるだけで、わたしの名前を呼んでくれるだけで……なんて、ずいぶん欲張りになってしまったけれど。わたしはこれが運命だろうが偶然だろうが、なんだろうが、今この瞬間を、飛び跳ねて喜ばずにはいられないのだ。

「木葉さん!」

 大きな声が出た。びくっと木葉さんが少し震えてから「そんなに怒らないでください」と苦笑いした。あの助けてもらった日に呼び止められなかったことを思い出す。名前を知らなかった。呼び止める勇気もなかった。でも、今は、こうやって名前を呼べる。これを奇跡と言わずに何を奇跡と言うのだろう!

「わたし、ずっと、ずっと前から、木葉さんに助けてもらったあの日からずっと」

 木葉さんがわたしの手をぎゅっと掴み直した。歩行者信号は点滅をはじめ、そのうち赤になってしまうだろう。遠くから電車の音が聞こえてくる。わたしが乗る予定だった電車の音だ。これを逃したら二十分待ちぼうけになるし、家から車で二十分くらいの駅まで親に迎えに来てもらわなければいけなくなる。ごめん、お父さん、お母さん。でもわたし、今この信号を、渡るわけにはいかないから、迷惑かけてごめんね。わたしが梟谷学園に入りたいって言ったとき、正当な理由で反対してくれたのに、わがまま言ってごめんね。最後は背中を押してくれて、ありがとう。帰りが遅くなる運動部に入るって言ったときも困らせてごめんね。許してくれてありがとう。何よりも、わたしにこの再会をくれて、ありがとう。

「ずっと、ずっと、木葉さんのことが、好きです。優しくてかっこよくて、たまにかっこ悪い木葉さんのことが、大好きです!」

 笑って言えた。この気持ちを掘り起こすそのときは、きっとこの幸せが終わってしまう瞬間なのだろうと、必死に隠してきた。終わらないように。少しでも長く続くように。けれど、弾けるように飛び出した感情たちは、きらきらと星のようにきらめいていて。どんなに溢れていってもなくなる気配はなくて。クラッカーが弾けたみたいに、とてもとても、華やかだった。
 歩行者信号が赤になる。その瞬間に電車の騒がしい音が辺りを包み込んで、ほんの少し木葉さんの髪を揺らした。

「たまにかっこ悪いは余計だわ」

 大笑いしながらぱっとわたしの手を離した。そうして笑ったままわたしをぎゅっと抱き寄せると一つ息をついた。それでもまだ静かに笑っているので、おかしくてわたしも笑ってしまう。

「俺も、優しくてかわいくて、たまにおっちょこちょいなが好きだよ」

 たまにおっちょこちょいは余計です。そう笑いながら返したら、木葉さんはぐしゃぐしゃとわたしの頭を撫でた。たくさん助けてくれた手、たくさん教えてくれた手。バレーをするために大事な手だ。どうか、この人の頑張りが、努力が、ひたむきな心が、報われますように。それを願いながら、応援しながら、この手を握っていきたい。そんなことを想える日がくるなんて、本当に、なんて幸せ者なのだろう。これ以上ないくらいの幸せをありがとうございます、とこれ以上ないくらい強い力で抱きしめ返した。