darling

涙のあと9(k)

 報告会は解散となり、全員で揃って部室から出る。今日の鍵当番は木兎なのだが何を思ったのか木兎が俺に鍵を渡してきた。「はい?」と笑って避けたが「ん!」と力強く渡されたものだから根負けして受け取ってしまう。よく分からないまま鍵を握りしめている俺の横を素通りしていった木兎が「なーなー」と誰かに声をかけた。

「はい!」
ってこのあとヒマ?」
「あ、はい、何もないです!」
「じゃー木葉のこと頼んだ!」
「は?!」

 何を?! 固まる俺を置いて雀田と白福も「よろしくね~」と言いつつ部室から出て行く。は「分かりました」と一応返事をしているが、首を傾げているのでよく分かっていないらしい。よく分かっていない二人を残し、部室からみんな出て行ってしまった。
 ぱたん、と閉まったドアを二人でしばらく眺めてから、顔を見合わせる。「どういうことでしょうか」とが困ったように笑顔をこぼす。それに俺もつられて「なんだろうな」と笑って返しておいた。大体どういうことかは分かってしまっているのだけど。ただそれを言い出したのが木兎だったことには驚いた。木兎は恋愛とかそういうものに拒否感があったりマイナスな感情があったりはしないが、かといって積極的なわけでもない。簡単に言ってしまうと「今はそんなもん興味ねえ!」という感じだ。だから俺とのことも、他の連中みたくからかったりすることは一番少ない。そんな木兎が、と思うとかなり照れくさい気持ちになってしまう。

「わ、わたしは木葉さんの何を頼まれたんでしょうか……」
「なんでしょうね」

 まるで頭の上にはてなを飛ばしているように見えるほど分かりやすく困惑している。俺も同じように困惑したふりをしつつ「まあ、一回座っとく?」と立ち上がったばかりのに声をかける。言ったあとにはっとして「いや、用事とかあるなら全然いいですけども」と付け足しておく。はほぼ即答で「何もないです!」と答えて先ほどまで座っていた席にまた座った。そういえばさっき木兎に何もないと答えていたっけか。のことになると焦ってちゃんと考えて物を言えなくなってしまう。反省しつつ俺もの隣に腰を下ろした。
 妙な空気感にどうしようか考えつつ、ふと机の上に視線を落とす。の手が自然と視界に入ってきたのでじいっと見てしまう。こんなにじっと見たことはなかったが、よく見ると爪がきれいに手入れされていて、女の子にしては少し短めだ。マネージャー業のために短くこまめに切っているのだろうか。それにしても小さい手だし、指なんか俺のに比べると細くてすぐ折れそうだ。そりゃあジャグタンクなんか重くて仕方ないだろう。さらによく見ると、指に小さな傷のようなものがちょこちょこあるのを見つける。部活中にできてしまったものだろうか。どうであれ、何かを一生懸命にやってる子の手だ。そう思うと、心臓がきゅーっと締め付けられるような感覚があった。のそういうところ、弱いんだよな、俺。自分の趣味趣向がだいぶはっきりしてきている気がする。
 そんなことを考えながらぼーっとの手を見ていたが、ふと視線を感じる。ちらりと目線だけを上げると、ばちっとと目が合った。

「どうした?」
「え、いや、とくになにも!」
「見てたじゃん~なんだよ~」

 軽くでこぴんをお見舞いすると、はおでこを手で押さえつつ「見てただけです!」となぜだか照れくさそうに言った。そういえばよくの視線に気付いてこんな掛け合いをしたな。そんなことを思い出してはっとする。そういえば、最近、に触られていないような。今まではよく俺の腕とか背中とかをふつうに触ってきていたし、髪に関しては春合宿後はよく触りたいと言われていたのに。最近はそういうことは一切しなくなったし、今までふつうに口にしていた「髪の毛さらさらですね~」とかそういうことも聞いていない。自意識過剰だと笑われるかもしれないけど、俺が告白をしてから、そういうのを聞いていないような気がする。

「なに見てたの?」
「…………こ、木葉さんの、髪の毛、ですかね……」
「髪な。はい、どうぞ」
「えっ!」
「え、触らないの?」

 すげー俺が恥ずかしいやつみたいになっている気がする。俺の髪好きじゃん触ってもいいぜ、的な勘違い男になっていないか心配でならない。そんな心配をしている俺を見たままは少し頬を赤くしたまま固まった。今までなら「いいんですか!」と食い気味に触ってきていたのに。なんか、なんというか、はじめのころと立場が逆になっている、ような。

「いいです……!」
「さすがに飽きた?」
「違います! 髪の毛大好きです!」
「ちょっと危ない発言に聞こえるからやめような」

 後輩に頭を差し出す先輩、という謎の構図が出来上がっているが、それでもなおは触ろうとしない。今までわしゃわしゃと触られていただけにちょっと寂しい。それにしても急に態度を変えられてしまったものだ。意識してくれているのか、そうじゃないのか。どっちなんだろうなあ、と苦笑いをしつつ「えーなんで触らないの?」と意地悪を言ってみた。

「なっ、なんでって……」
「今までわしゃわしゃしてたじゃん。もうしてくんない感じ?」
「わ、わしゃわしゃ……!」
「してたじゃん。俺、あれ結構好きだったんだけどな~?」

 頭を上げる。は真っ赤になった顔を腕で隠そうとしているのか変なポーズになっていた。俺と目が合うなりわたわたと慌てた様子であっちを見たりこっちを見たりと忙しい。かわいいやつ。ちょっと笑うと、は余計に顔を赤らめた。そうしてようやく「だ、だって」と口を開く。

「どきどき、するから、むりです……」

 かしゃん、と握っていた鍵が指から滑り落ちていった。がびっくりして肩を揺らしたが、すぐに鍵を拾いつつ「なにしてるんですかー!」と赤い顔のまま笑う。
 どきどきするから無理ですって、それこっちの台詞なんですけど。覚醒しかけているとはいえ根はれっきとしたヘタレのままなのでどう切り返せばいいのか分からない。完全にフリーズしてしまった俺をはあっちこっちする視線の間にちらちらと見ているのがよく分かる。なんだそれ、、お前は俺をどうしたいんだ。ごんっと頭をぶつけるように机に突っ伏す。が驚いたような声を出したが、今はそれどころじゃない。

さあ」
「は、はい!」
「もう、あの、なんつーか」
「はい!」
「付き合ってくれ……」
「なっ……なんでそんなこと言うんですか!」
「いやもう、無理だろ、俺が」
「こ、木葉さん、お口閉じましょう!」
「閉じない……」

 あんなことを言われて陥落しない男はいるのだろうか。いるとしたら俺に心の持ちようを教えてほしい。そんな、かわいいことを言われて、我慢できるほどできた男じゃないです、木葉秋紀は。
 はまたわたわたと慌てながらなぜだか俺から距離を取った。危険人物認定を受けてしまったらしい。机に突っ伏したまま顔をのほうに向けると、はさっと視線を逸らしてしまう。本当に立場が逆になったものだ。今まではに好きと言われて俺が慌てていたのに。すっかり反対だ。よく小学生の男子は好きな女の子をいじめるのが好き、とはいうが、気持ちがなんとなく分かる。好きな女の子が恥ずかしがっていたり照れていたり、焦っている姿というのは、なぜだか抜群にかわいく見える。いや普段もかわいいのだけど、それ以上にという意味で。こうして意地悪してしまいたくなる俺はまだまだ子どもなのかもしれない。まあ、意地悪というわけでもない、のだけど。割と本気で言っているけどにどう伝わっているかは分からない。
 じいっとの顔を見ていてふと見つけた。涙のあとが薄っすらと残っている。かなりぼろぼろと泣いていたから残ってしまったのだろう。拭こうと手を伸ばしたが、がものすごく動揺した様子で勢いよく避けた。「なっなにするんですか!!」と必死に逃げていく姿に笑ってしまう。

「そういえばいつになったらチョークスリーパーしてくれんの?」
「もうしません!」
「え~」

 けらけら笑いつつ逃げようとするの右手を捕まえた。とりあえずぐいっと引っ張って元の席に座らせることに成功する。は真っ赤な顔のまま真下を見ているくらいの勢いで俯いたまま動かない。そういうの、マジでやめて、本当。俺まで照れるから、本当に。
 とりあえず涙のあとだ、そうだった。俯いているに「顔上げて」と声をかけたが「むりです」という返答だったので困ってしまう。拭かなくてもいいだろうけど、ここまでくると拭いてやりたくて仕方なくなってしまった。どうしようか考えつつ顔を覗き込んでみるが上げてくれそうな気配はない。上げてくれないなら上げるまで。のほっぺを両手で包んでそのままぐいっと上を向かせる。ほぼ無理やりになってしまったが致し方ない。は目を真ん丸にしてものすごく困惑した表情を浮かべていた。そのまま涙のあとを拭こうと右手だけほっぺから離してちょん、と指で触れる。光の具合でよく見えないらしく、涙のあとがどこにあるのかよく分からない。それを探そうとちょっとだけ顔を近付けた瞬間、が何語か分からない声をあげながら両手で俺の肩辺りをごんっと叩いた。
 衝撃で俺もも椅子ごと後ろへ倒れていき、なかなかに悲惨な現場ができあがる。頭を打った俺とおでこを打ったらしい。しばらく二人で床に突っ伏して悶えていると、自然と笑い声に変わった。「さん過激すぎだろ」と笑いながら言うとはすぐに立ち上がって俺のそばにやってきて「すみません!!」と先ほどの赤い顔はどこへやら、という感じでしゃがみ込む。起き上がる俺の背中を支えつつ「すみません、怪我、怪我とかしてないですか、すみません!」と土下座する勢いだったので止めておく。

「いや、俺もごめん。急に顔なんか触られたらびっくりするよな。涙のあとが残ってたからさ」
「へっ?」
「え? なに?」

 またみるみるの顔が赤くなる。俺が首を傾げていると「あっ、そ、そういうことでしたか……!」とものすごく恥ずかしそうに呟いている。そんな照れるポイントあったか? 涙のあとがあるのが恥ずかしかった、とか? いやでも「そういうことでしたか」ってことは何か別のことを想定していたって感じか? 先ほどの光景を思い出し、の動揺っぷりと重ねたらすぐに答えが出た。

「何されると思った?」
「木葉さん!!」

 真っ赤な顔のままばしっと俺の頭を叩く。いつの間にか、もう涙のあとはなくなっていた。