darling

涙のあと4(k)

 練習終わり。に話を聞きたくて姿を探しているのだが、なかなか見つからない。いつもなら体育館の片付けを積極的にやってくれるのに今日は練習が終わると同時にそそくさと一人で外へ行ってしまった。雀田が呼び止めたらしいのだが、なんでもコーチに頼まれ事をされているとかで走って出て行ったのだそうだ。今日コーチは連盟の会議に出席しているため練習にはいなかった。そんなコーチから一体何の頼み事をされたというのだろうか。雀田がに聞いた話によると「倉庫にあるビブスを朝練で使うから出しておいてほしい」と言われたらしいとかなんとか。倉庫にあるビブスなんか使ったことあったか? 朝練で使うなら明日の朝に準備しておけばいいんじゃないか? 首を傾げつつが向かったと思われる倉庫へ急いだ。
 が向かったと思われる倉庫は南倉庫らしいと雀田は言っていた。それぞれの部活が専用で使っているビブスは部室にしまってあるのだが、数が足りなくなったときには南倉庫にある共有ビブスを勝手に使っていいことになっている。南倉庫は前にが閉じ込められてしまった北倉庫の反対側にある。校舎とは反対側の部室棟の裏になるのでそこまで遠くはない。だからこそ、なかなか戻ってこないことに違和感を覚えた。
 今日、はやはり仕事でいくつかミスをした。スポドリの補充がされていなかったりタオルが汚れていたり。似たようなミスばかりだ。が同じミスを何度も繰り返すことには全員が違和感を覚えている。けれど、その原因が分からないしがそのことに対して謝るばかりだから、一部ではに対して不満を覚え始めた部員がいるようだった。休憩中何度も話しかけようとしたのだけど、はそれを知ってか知らずか外へ逃げて行ってしまう。なかなか話しかけられずにいる俺を見かねた赤葦も話しかけようとしていたけれど、俺と同じようにうまくかわされてしまっているようだった。だから結局、こうして部活後に話をすることになってしまったわけで。
 頭の中でもやもやした気持ちを振り払いつつ部室棟の裏に回る。目の前に南倉庫が見えてきたが人影はない。前みたいに閉じこめられていないだろうか。そう不安になって扉に駆け寄るが、人気はない。誰かが扉を開けた形跡もないし、鍵もしっかり閉まっている。少しほっとしてしまったがそうなるとはどこに行ったんだ? さらに首を傾げつつ倉庫を後にようとしたとき、かすかに水が流れるような音が聞こえた。部室棟の裏には小さな足洗い場がついているのだが、誰もが「なんでこんなとこに作った?」と思うほどひっそりしている。ほとんど使う人はいないし、使われるとしても南倉庫に用具を多くしまっているバスケ部がたまに用具を洗うときくらいなものだ。けど、バスケ部って今日、他校に練習試合に行ってるんじゃ? じゃあ誰が? そんな興味から再び倉庫に足を向け、部室棟のさらに裏を覗き込む。

「……?」
「あ……木葉さん……」

 がいた。ほっとしたのも束の間。はなぜだか半袖の運動着を水浸しにしていた。白い服が濡れると、まあ、端的に言うと、透けてしまうわけで。ばっと顔を背けて「見てません」と主張をする。は「何がですか?」と、いつもの声色で明るく言った。それが妙に耳にひっかかるような感覚があって。思い出しちゃだめだと思いつつも、の姿を思い出す。残念なことにただの男子高校生である俺は透けた水色を覚えてしまっていた。けど、それと同時にの目が赤かったことも覚えていた。そして、の運動着が汚れていたことも。

「……どうした? なにしたの、それ」
「すみません」
「え、いや、なんで謝るんだよ」
「最近ドジばっかりで……今も、探してくれてたんですよね、すみません」

 声だけで分かる。へらっといつものように笑った。いつものよう、だけど、ちょっと無理していることも声だけで分かる。
 きゅっと水を止めては「片付け終わっちゃいますね、すみません」と言う。そのまま戻ろうとするものだから思わず焦りながら止めてしまう。はそれにきょとんとしつつ「そんなに汚いですか?」と見当外れなことを言って立ち止まった。こういうときはなんと返すのが一番ベターなのだろうか。直球で言うと俺がそこばかり注目していたように思われそうだし、かといって誤魔化せるほどの能力はない。いろいろ考えた結果、「濡れた服のままだとみんなが心配するから」と説得して、一先ずにはその場で待ってもらうことにした。
 ダッシュで体育館に戻り、部室の鍵を持ち、のことを聞いてくる雀田たちを抑えつつ再びダッシュ。暑いから着ないだろうと置きっぱなしにしてある長袖ジャージを持ってダッシュでのもとへ戻った。は状況をよく分かっていないようで首を傾げている。とりあえず長袖ジャージを手渡しつつ「とりあえずこれ着とけ」と言うと思った通り遠慮して断ってきた。そのまま戻らせるわけにはいかないのでぐいぐい押し付けると、それを渋々受け取ったがもう一度断ってくる。「いいですってば」とぐいぐい返そうとしてくるのでもうどうしようもなく。

「あの、ですね」
「はい?」
「……す」
「す?」
「透け、て、るので、着てくださいお願いします……」

 さすがに照れる。小さい声になってしまったがにはちゃんと聞こえていたようで。みるみる顔が赤くなったは俺のジャージで隠しながら「すみません!!」と本当のいつもどおりに言った。あわあわと慌てる姿はなんだか久しぶりに見た感じがして、思わず笑ってしまう。「分かってくれたならダイジョーブです」と返すと、は赤い顔のまま「お見苦しいものを」と今までで一番恥ずかしそうにつぶやいた。お見苦しくは、ないですけども。声には出さない。それを声に出したらただのすけべになるし。
 とりあえず角の向こうへ行って「どうぞ」と声をかけたが、なかなかから声がかからない。どうしたのかと思えばは「でも木葉さんのジャージが」と言い始める。たしかにはびしょ濡れだし俺のジャージも濡れるけども。そんなのはどうでもいいから、と言ったのだけどが続けて「でも白いジャージなのに、墨汚れが……」と言いかけて言葉を止めた。

「墨汚れ、とは?」
「え、あ、いえ、なんでもないです!」
「なんでもなくない。なんでビブス取りに来て墨汚れが付くの」

 確信。いろいろなことがつながった。それを問いただそうとした瞬間、びゅうっと強い風が吹いた。の小さなくしゃみが聞こえたので、問いただすより先に着替えさせるのを優先したほうが良さそうだ。「いいからそれ着ろって」と苦笑いで声をかけるが、頑なに着ようとしない。いろいろ考えると濡れた服をそのまま下に着ているのも気持ち悪いだろうし、体が冷えてしまう。とりあえず部室に行って着替えさせたほうがいいかもしれない。そう思ったのに、ちょうど部室棟前に陸上部がやってきてしまった。次の大会のメンバー発表をご丁寧に部室棟の前で部員全員そろってはじめてしまったので、を部室に連れていくにはその前を通るしかなくなってしまう。びしょ濡れの姿を見られるのも嫌だろうし、恥ずかしいだろう。そうなると、もうそこで着替えてもらうしかないわけで。

「それ脱いでジャージ着るのは?」
「えっ」
「誰か来ないように俺見とくから」
「え……いや、その……道路が、目の前にあるん、ですが」
「……そうだった」

 部室棟の裏は楠やら何やらと木が植えてあるので一応見えづらくはなっているが、一般道に面している。車通りも人通りも少ないのだが、人目につく場所であることに変わりはない。男なら何も気にしないが女の子はそうはいかないに決まっていた。短絡的な思考に反省しつつどうしようか悩んでいると、が顔を覗かせながら「あの」と言いづらそうに口を開く。

「た、大変申し上げにくいのですが……」
「堅いな?! どうぞ?!」
「せ、背中を、貸していただけないでしょうか……」
「背中?」
「前に立っていただいて、その後ろでちょちょいっと……」

 あ~、なるほど! と言いかけて、いや待て、と踏みとどまる。それってが着替えてるすぐそばにいるってこと? それだめじゃない?! むしろそれはオッケーなの?! ぶわっといろんなところから汗が滲んだが気付かないふりをしておく。いや、それしかない。がそれでいいと言っているのならそれでいくしかない。「こんな背中でよければいくらでもどうぞ」と返すとは「すみません」と恥ずかしそうに呟いた。
 そろ~っとなぜだか足音を殺しつつ部室棟の裏に戻る。心を無にして部室棟の壁だけを見つつ「どうぞ」と声をかけたのだが、は「あの、木葉さん」と言いづらそうに呟く。

「あの、こ、こっち向いたままですか……?」
「え? ……あっ、そういうことか! ごめん! そういうことか!!」

 馬鹿か俺は?! ふつう言われなくても分かるだろ?! なんでのほうを向いて壁になったんだよ?! ふつうに考えて背中をに向けるだろ?! 馬鹿か俺は!!
 くるっと体の向きを変えて背中をに向ける。変な汗が余計にぶわっと溢れつつ、少しでも面積が増えるように仁王立ちしておく。自分の馬鹿さ加減を反省していると、「すみません」というの声の後にごそごそと服が擦れる音が聞こえてくる。聞こえません、何も聞こえていません。何も想像していません。木葉秋紀、今、無です。何も考えていません。何度も何度もそう唱えて自分に言い聞かせているうち、着替えは終了したようだった。最後にジャージのチャックをジッと閉めた音がして、もういいか声をかけようと、したけど。

「すみません、わたし、ドジで」

 震えていた。声が震えて、それといっしょに空気が震えているように感じた。ぐずっと鼻をすすった音がしてから、がもう一度「すみません」と今にも消え入りそうな声で言う。息遣いが震えてしまい、鼻をすする音の間隔が狭くなる。

「む、昔から、ドジで、そのせいで、迷惑かけて、ばかりで」

 知っているのに。俺だけじゃなくてみんながちゃんと知っているのに。そんなところなんかすっ飛ばした先を、のことをちゃんと見ているのに。はまだそんなどうでもいいことを抱えたままなんだと思ったら、ちくりとどこかが痛んだ。
 たくさん嫌なことがあったのだろう。たくさん後悔があるのだろう。俺はのこれからには少しくらいなら干渉できる。できなかったことをできるように手助けしたり、困っていたら手を差し伸べられる。に笑ってほしいからなんていって勝手にお節介することもできる。けど、どんなにがんばっても、どうにかしたいと思っても、が抱える嫌だったことや後悔を払うことはできない。が自分に自信をなくしてしまった原因を取り除くことはできないのだ。それがいつも歯がゆい。おこがましいのだけど。

「すみません」

 ほとんど涙で塗りつぶされた声だった。その声がきりきりと心臓を痛める感覚がして、ああ、聞きたくないなあ、と無性に泣きたくなってしまった。