darling

羽化する瞬間3(k)

 太陽の日差し一つ漏らさないほど、どんよりと曇った空をぼけっと眺める。雨は降らないという予報だったが少し心配になる空模様だ。
 もう少しで五月が終わる。別になんていうことはない当たり前のことだけれど、全国の運動部に所属するやつらにとってはもしかしたら少しだけ特別なことかもしれない。俺もその中の一人であることに間違いはない。予選大会がはじまる前というのは、いつも妙にそわそわして未だに慣れない。一つ伸びをしてから体育館のほうを振り返る。すると、特に意識したわけでもなかったのだがばちっと視線がぶつかる。だ。俺と目が合ったことに気が付くとすぐさま視線をそら……そうとしたが、不自然に思えたのか慌ててあわあわしているだけになっている。相変わらず話しかけると慌てたり、じっと見ると恥ずかしそうにしたり。そんなふうにうまく会話できなくなった。けれど、やっぱりそれでよかったのだと思えるのだから不思議なものだ。の慌てている様子を少し笑ってやりつつ声は出さずに手をひらひら振って呼んでみる。は若干おろおろはしていたが、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。

「スポドリ補充終わった?」
「お、わりました」
「歯切れ悪いな~」

 けらけら笑う。は対照的になんだか申し訳なさそうな顔をして少しだけ俯いてしまった。後悔はしていない。だけど、ちょっとだけ反省はしている。インターハイ予選を目前に控えた今に、を困らせてしまっているのは事実だろう。いろんなことを考えたら俺が卒業する直前とか、卒業してからとか、そういうタイミングで伝えるのが一番無難だったと思う。けど、そう分かっていたのに、言葉にしてしまった。かっこつけたわけでもなくタイミングを計ったわけでもなく。自然に出たものだった。だから、後悔はない。
 背後では木兎がひたすら赤葦を自主練に付き合わせている声、猿杙たちがマネージャー二人と談笑している声、他の部員の話し声。たくさんの声で溢れている。けれど、の声だけは聞こえてこない。ずいぶん口数が減った。が一年生のとき、つまり去年のこの時期と同じくらいかもしれない。人見知りな子だと思ったのを思い出す。はじめて話しかけたときにものすごく怯えたような反応をされたのなんか、昨日のことのように思い出す。目つきが悪いし一応背が高いほうに分類されるから、怖がられているのだろうとちょっと落ち込んだっけ。
 と仲良くなるきっかけは去年の文化祭だった。去年の文化祭は俺の誕生日の次の日に開催された。例年二年生、三年生クラスで希望したところが食べ物系の出店をやり、一年生は展示のみだ。上級生はそれ以外だと劇をやったりお化け屋敷をやったり、なかなかに賑やかな文化祭だと思う。俺のクラスは去年お化け屋敷をやったのだが、それにが友達に無理やり連れられてやってきた。おどかし役でちょうど入っていたので張り切っての前に出たのだけど。そこまで怖がっていたが一瞬叫びそうになったがすぐに堪えて「こっ、木葉さん! こんにちは!!」と腰を抜かしながら礼儀正しく挨拶をしてくれた。その姿があまりにも面白くて大笑いしてしまい、俺はおどかし役を解任された。は必死に謝ってきたが未だに笑いが治まらなかった俺を見て「そんなに笑わないでください」とちょっと拗ねていたっけ。それがきっかけで怖がられることもなくなり、からかい合うまでに仲良くなったのだ。
 は少し間を開けて俺の隣に座る。先ほどの俺と同じように空を見上げると「どんよりしてますね」とぼそりと呟く。

さ」
「はい?」
「迷惑だった?」

 目はそらさない。我ながら強気になったものだと少しだけ笑いがこぼれた。俺が強気になったかと思ったらはしどろもどろしはじめてしまう。俺に後悔はないけれど、にとっては迷惑だったのかもしれない。そう思うとほんの少しだけ、ちくりとどこかが痛むのだ。

「タイミングがあんだろ~! ……とか言ってくれても大丈夫ですけども」
「えっ、いや、えっと」
「ごめんな、自分のことばっかりで」

 苦笑い。の顔がようやくこちらを見た。その顔はなんとも言えない表情をしている。きゅっと唇を噛んで瞳で何かを訴えようとしているような、そんな表情。言いたいけど言えない、みたいな。何をがその胸に秘めているのかは分からない。言ってくれたらいいのに。そんなふうに少し残念に思う自分が欲張りに思えてならない。

「……い」
「い?」
「インハイ本選、に、行きたいです」
「…………うん?」
「木葉さんがたくさん活躍している姿を見たいです」
「……うん」
「たくさんの歓声をもらって、みんなと喜び合っている姿を見たいです」
「うん」
「木葉さんのことが、その、好きです」
「え」
「バレーをしている木葉さんも好きです」
「……えっと?」
「邪魔したくないです」

 すぱっ、と切れ味のいいハサミで紙を切ったみたいな言い方だった。はぎゅうっと両手を握りながら、へらりと笑った。俺がぽかんとしているとは「あっいや、でも」と慌て始める。「迷惑ではなくてですね!」とあたふたしている姿に吹き出してしまう。

「うれしかった、です……」
「そ、それは何より」
「……」
「…………つまり、俺、フラれてる?」
「え?!」
「いや、ごめん、状況が読めてないわ、ごめん」

 よく分からない汗がすごい。俺まであたふたしはじめると収拾がつかなくなるだろ!そう分かっていてもよく分からないものは仕方ない。
 邪魔、とは?それが一番頭の中で違和感として残っている。がどういうつもりでそう言ったのかも分からない。ただ今は答えがどうなのかが気になってたまらない。フラれた、わけではない、のか?

「ふ、ふっては、ない、です……」
「……本当?」
「…………」
「なぜ黙る?!」
「は、恥ずかしいんですよ!!」

 ばしっと肩を叩かれた。久しぶりにちょっと乱暴にされてほっとした。面倒だとか迷惑だとか思われていたら本当に立ち直れなかったかもしれない。は少しだけ恥ずかしそうな顔のままだったけど小さくはにかんだ。

「インターハイ、行きましょうね!」

 どこまでもまっすぐな瞳で、まっすぐに俺だけを見て言った。その顔が好きなはずなのに今はほんの少しだけ憎たらしい。そんなふうに言われたらなあ。内心そう思っているのに顔はにつられて笑ってしまう。

「また言ってもいい?」

 笑いながらそう聞いてみる。は曇り空を見上げつつ小さく笑った。

「全国制覇してくださいね」
「厳しい後輩だな……」

 は立ち上がりつつ「ぐーたらしてないで練習してください!」と俺の背中を軽く叩く。それが今までどおりのの声色で、表情だった。本当に厳しい後輩だ。そういうところが好きなんだから、どうしようもないのだけど。
 前と変わらない時間が戻ってくる。前と変わっていないけれど、ほんの少しだけ違う。そんな何かがあるような気がして、一人で勝手にうれしくなってしまった。

「全国制覇したらも一緒に喜んでくれるならがんばりますよ」
「えっ? 喜ぶに決まってるじゃないですか」
「だってさっき〝みんなと喜び合ってる姿を見たいです〟って他人事みたいに言ったじゃん?」
「ちがいますよ!!」
は喜んでくれないのか~そうか~先輩さみしいな~って思ったわ~」
「ちがいますってば!!」

 笑いながら立ち上がってと一緒に他の部員の輪に戻る。は弁明を続けているが、もう変な空気はどこにもない。
 今はバレーに集中してほしいってことだと勝手に解釈した。いろいろ謎なところは多いけれど、なりに俺のことを考えて出してくれた言葉だったのだろう。おあずけをくらった気持ちだ。けれども、まあ。ちょっと耳が赤いに免じてとりあえず今は大人しくしておこう。
 雲の切れ間から光がもれているのか、外が少しだけ明るくなっている。それだけなのにとてもいいものを見た気持ちになった。浮かれてんなあ、俺。くすぐったい気持ちを隠しつつ、一つ深呼吸をした。