darling

気付いてくれた5

※主人公視点です。ほとんど主人公の語りです。


 聴こえた気がした声に、とても安心してしまったのが少し恥ずかしかった。幻聴かと思って小さな声で名前を呼んだら、本当にいてくれたんだ。木葉さんが。ガンガンとドアを叩く音が聞こえたのと、なんとかこじ開けようと引っ張っているらしいことが分かって、ほんの少しだけ涙が出そうだった。
 電気をつけていても窓が小さいことと、グラウンドの方面に窓が向いていないことが重なって誰も気付いてくれなかった。なんとか思いついて外に髪ゴムを飛ばしてみたりもしたけれど。やっぱり誰も気付いてくれない。埃っぽくて喉は痛くなってくるし、何度も背伸びして窓から顔を出そうとしたせいで足が痛い。古い電気はときおりバチバチッと嫌な音を立てるし、ひんやりしている倉庫内でじっとしているせいでどんどん体が冷えていって。もしこのまま誰も気付いてくれなかったらどうしようって、すごく怖くなって。唯一お守りのように心の支えになっていたのは木葉さんがくれた髪ゴムだった。
 木葉さんがドアを引っ張ったりいろいろして、少しずつ開いていった瞬間。本当にわたしの瞳には木葉さんがきらきらと光って見えたのだ。おかしなやつだと笑われるかもしれない。けれど、本当にそうだったのだ。ちょっと指が見えただけで、ちょっと髪が見えただけで、顔が見えただけで。わたしの心の波は凪いでいって、途端に安心感に包まれた。
 少し肩で息をしながら顔を上げた木葉さんを見て、はっとなって「すみません」と謝る。わたしの不注意のせいでこんなに木葉さんが疲れている。きっと他の人たちも探してくれているのだろう。わたしが、ドジなせいで。のろまでとろい自分のせいで、みんなに迷惑をかけてしまっているんだ。少しだけ手が震えた。うんざりされたらどうしよう。もう何度木葉さんに助けてもらったか分からない。何度迷惑をかけたのか、何度困らせたのか。不安で震えだしそうな声をぐっと堪えて、顔は上げずにいつもどおりを装うことにした。木葉さん、優しいから。笑ってくれるはず。そうであってほしい。怖い。「もうお前なんか知らない」とか、言われたらどうしよう。もっとしっかりしていなきゃいけないのに。どうしてわたしはいつもこうなのだろう。
 震えそうになる体に力を入れてぐっと堪えていたのに。木葉さんがいつもそれをいとも容易くほどいてしまうのだ。

「怖かったな、がんばったな」

 まるで子どもをなだめるように言った。優しい声がすぐ耳元で響くと、堪えていたものがぜんぶ流れ出してしまう。大きくてあたたかい手がわたしの頭を何度も何度も撫でるから、子どもみたいに泣いてしまった。ぎゅうっと木葉さんのジャージをつかむ。言うはずのなかった「こわかった」という言葉が自然に出ていくと、木葉さんは「怖かったな」と優しい声で言いながらずっとしっかり抱きしめていてくれた。
 自覚がなかったわけでも、そうではないと思い込んでいたわけでもない。けれど、このときはじめて、ちゃんと自覚した。わたし、木葉さんのこと、好きだなあ。この人のこと、誰にも取られたくないなあ。そんな欲張りな自分をしっかり自覚してしまった。情けないなあ。ばかだなあ。そう思うのだけど一度溢れ出た感情はもう全身に滲みこんで、取り返しのつかないことになっていた。わたし、あのとき、一目惚れしちゃったんだ。救われたとか、お礼が言いたいとか。そういう回りくどいものの中に「好き」を忍び込ませていたんだ。でもぜんぶ内側はそれしかなくて。「好き」という曖昧な言葉を曖昧なまま。回りくどいものとセットにしておくことで、本当の「好き」を自分でも見失っていたんだ。
 木葉さんがなぜかわたしに謝る。あのときといっしょだ。なんで木葉さんが謝るのだろう。わたしがドジなせいでこうなったのだから、木葉さんが謝る必要なんてどこにもないのに。それでも木葉さんはわたしに何度も謝るのだ。またわしゃわしゃと撫でてくる手の体温が今までとは少し違って感じる。あたたかいだけじゃなくてくすぐったい。わたし、木葉さんのこと、何よりも、好きだなあ。そう思ったら情けない顔をしてしまった。



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 わざわざ最寄り駅まで送ってくれた猿杙さんに頭を下げてお礼を言う。猿杙さんは「いいって」といつもどおり笑ったあと「むしろ木葉じゃなくてごめんね」と言った。その言葉にぶんぶん首を振って「いえ! そんなこと!」と言うと猿杙さんは頬を指でかきながら「うん、いや、ごめんね」となぜだか笑った。猿杙さんが何を言いたいのかはよく分からなかったけど、とにかく首を横に振っておいた。
 駅から家に向かって歩き始める。薄暗いけれど仕事終わりのサラリーマンやOLさんがいるので怖くはない。少し視線を上に向けると一番星が見えた。きらきらと一等輝くその光は、なんだか目が痛くなるほど眩しかった。
 この気持ちをわたしはどうするべきなのだろう。その疑問をすぐに消す。こんなの、しまっておくのが一番いい。今が一番幸せで、今が一番楽しいんだ。わたしにとって一番いい場所はここ。これ以上欲張ったってわたしなんかじゃ落ちていくだけ。ドジでのろまでとろいわたしは、どんなにがんばってもその上にはたどり着けない。きっと途中で転んでしまってそのまま下まで落ちていくのが関の山だ。
 大きく息を吸い込む。少し息を止めてからゆっくり吐く。体の奥のほう。自分でも見えないところにそれをしまいこめた気がする。
 いつか。これを掘り起こすそのときは。きっとこの幸せが終わってしまう瞬間なのだろう。出てこないように、溢れ出ないように、けれど忘れないように。そうやってこれからを過ごしていくのだと思うと、ほんの少しだけ息苦しくなってしまった。