darling

春季合宿7(k)

 合宿は滞りなく進行している。二日目も大きな出来事はなく、去年と同じ合宿メニューをこなしたのちそれぞれが振り分けられた仕事をきっちりこなしていった。一日目のようなちょっとしたサプライズもないままに二日目を終えた。同じように三日目も、まあ若干の木兎しょぼくれ時間があったものの、割といつも通り終えた。
 春季合宿も折り返しの四日目。そのお昼に事件が起きた。合宿所は基本的にもともと何もない状態で、そこにいろいろものを持ち込んで使わせてもらっている。たとえば食材。これは監督が車でスーパーまで行って三日分くらいをまとめて買いに行っているのだが。四日目の朝、天気予報が告げていたように今年最後と思われる降雪に見まわれてしまった。ちょうど今日の夕飯分の食材がなくなったタイミングだったのだが、思った以上にそこそこ降り積もった雪と傾斜の激しい山道。これを車で降りていくのはかなり危険を伴う。スーパーまでは歩いて十五分かかるかどうか、といった距離ではあるのだが、今日はコーチが用事で合宿所におらず監督と俺たち生徒しかいない。さすがに責任者である監督が外に出ていくわけにもいかず、苦渋の決断で俺たちの中からおつかいが出される事態になったのだ。最初はマネージャーが三人で行くと言っていたのだが、さすがに女子だけで行かせるわけにはいかない。監督の指示でマネージャー一人と男子一人の二人でおつかいに出ることとなった。
 マネージャーからは「自分が一番後輩だから」といつも通りの理由でが買い出し係に立候補し、もう一人は、と監督が一年生の方を見たときだった。木兎が突然「木葉が行くって言ってます!」と言いはじめた。監督がすぐさま「そうか、なら任せた」と俺に財布と買い物袋を持たせ、あれよあれよという間におつかいに出ることになった。俺もも部員たちからジャージを何枚も重ねられた上に自分のコートを着て完全防備にする。に至っては監督が車に入れていたマフラーを巻かれて無敵状態だ。なぜか寒がりの二人によるおつかいになってしまったが、まあ、ちょっと、ラッキーとか思ったり。寒がっているがかわいそうなのでできるだけ早く帰るようにしようと心に決め、合宿所をあとにした。
 降雪といっても外に出られないほどではないし、車だと滑ったりタイヤをとられたりして危険というだけで歩いていく分には大丈夫そうだ。吹雪になっているわけでもないし、視界良好。冬の最後の悪あがきといったところだろうか。ふつうに話しながら歩けるレベルだし、の足取りも大丈夫そうだ。と、思った矢先。がつるっと滑ってしりもちをついた。

「大丈夫か?!」
「思いっきり滑っちゃいました」

 はは、と心底おかしそうに笑う。怪我は大丈夫そうだ。これ、男二人で行ったほうがより安全だったんじゃないだろうか。今更思ったそれは思いつかなかったふりをしておく。に手を伸ばすと、冷たい指先が俺の指先に触れた。二人とも冷たすぎてあんまり感覚がない。を引っ張り上げてから手を離すと、「すみません」とが苦笑いをこぼした。

も寒いの苦手だろ」
「そうなんですよ。木葉さんもですよね?」
「暑いのも嫌いけど、寒いのってなんか痛いじゃん。それが嫌なんだよなあ」
「分かります」

 手をこすり合わせながらゆっくり坂道を下りていく。自分の吐いた息で指先を温めながらの歩調に合わせて焦らず歩き続け、ようやく坂を下り切った。
 坂を下りればそこまで雪も積もっていない。山道はやっぱり溶けにくいのだろう。二人でそんな話をしながら地図に従って道を進んでいく。

「あったかいとこ行きたいですね~」
「沖縄とか?」
「沖縄とか!」
「俺、海外行ってみたいなー。ハワイとか」

 この辺りに住んでいるらしいおじいさんとすれ違う。が元気よく「こんにちは!」と声をかけたのでつられて俺も「こんにちは」と挨拶をした。おじいさんはなんだか優しく笑って「こんにちは、気をつけてな」と言ってくれ、二人で「ありがとうございます」と会釈を返した。歩いているうちに雪も止んでいき、もうこれ以上積もる心配はなさそうだ。
 そんなふうに呑気に歩いていくうちにスーパーに到着した。監督から預かった買い物リストを二人で見ながらカゴに商品を入れていき、全部入れ終わったころには結構いっぱいになっていた。会計を済ませて渡された買い物袋にすべて詰め込むと、なかなか大荷物になってしまった。それを「後輩だから」とが持とうとしたが、断固拒否しておく。

「何でですか! 後輩の仕事ですよ!」
「それ以前に力仕事は男の仕事です~」
「木葉さんそんなに力強くないじゃないですか」
「真顔で言われると傷付くからやめようか」

 話し合った結果、なんだか恥ずかしい気もするが二人で持つということになった。が右手、俺が左手で買い物袋を持ち、合宿所への道を戻っていく。足元に注意しながら話すの横顔をじっと見ているだけで心臓がくすぐったい。どうでもいい話にもにこにこと笑いながら反応していると、止んでいた雪が薄っすらとまた降ってきた。本当に最後の悪あがきだろう。
 ちょっと空を見上げた隙に、「ぎゃっ」と不穏な声が聞こえた。咄嗟に買い物袋を離しての背中を支えた。そこまではよかったのだが、急に素早く動いた俺まで足を滑らせてしまった。反射的に右手でもをぐいっと引っ張ってバランスを取ったおかげで、俺もも転ばずに済んだのだが。

「お、おお……びびった……」
「すみません助かりました……」
「めっちゃ心臓ばくばくしてる……マジでびびったわ……」

 思いっきりを抱きしめてしまった。何やってんだ、かっこわる……。からゆっくり離れる。買い物袋はがしっかり持っていてくれたおかげで、ニンジンが飛び出すという最小限の被害に抑えられた。ニンジンを拾い上げて袋の中に入れると、が苦笑いをこぼしながら「もっと気を付けます」と言う。また歩き出そうとしたに「あのさ」と勇気を振り絞って声をかける。

「やっぱり買い物袋は俺が持つわ」
「え、ええ……大丈夫ですって、もう不覚は取りません!」
「いや、でも危ないし、その」
「?」
「俺が買い物袋を持つので、嫌でなければ、なのですが」
「なんですか?」

 の手から買い物袋を取り上げる。それを右手で持って、空いた左手を、恐る恐るに伸ばした。

「もし転びかけても助けられるし……嫌でなければ……手、どうですか」

 思いっきり照れてしまった。自然に言えばもうちょっと違和感なくできたかもしれないというのに。自分で自分を情けなく思いつつ、心の奥でため息をつく。本当俺ってヘタレだよなあ。「嫌だよな!ごめんごめん!忘れてくれ!」と急いで笑って言うと、引っ込めかけたその指先をがきゅっと握った。無言のままいつぞやかのように真っ赤な顔をしているから、俺も無言になってしまう。控えめに指先を握っているの指を、無言のまま手で握り直したら思わず「あー」と堪えきれなかった声が漏れた。

「……行きますか」
「……はい」

 二人で歩き始める。ひらひらと降る雪が前髪にかかるのをたまに払いつつ、ただただ無言で歩き続ける。俺もも冷え性やら寒がりやらが相まって、出発時には冷たくて感覚がなかったはずの指先が、今ではもうずいぶんと熱い。それがお互いわかってしまうから余計に黙り込んでしまう。ただただお互いの手をきゅっと握るだけしかできない。こんなとき気の利いた話でもできればヘタレなんて言われないんだろうか。いろいろぐるぐると会話を考えてみるけど、どれもこれも失敗に終わる予感しかしない。結局やっぱり黙り込んだままになってしまって、本当に自分が情けなくなった。
 宿舎の前にある坂道。絶対に滑ると思って少しの手を強く握ったら、も強く握り返してくれた。それがどうしてだか、ものすごくうれしくて、意味もなく息を吐いてしまった。しっかり地面を踏みしめて歩くの手を、たまに引っ張り上げながら歩いていく。ほんの少しだけ心に余裕ができて、の手がとても小さいことにようやく気が付いた。俺の手にすっぽり収まっちゃうんだよなあ。そう思うともうどうしようもなかった。
 手をつなぐ理由に使った「転びかけても助けられるから」は一切発生しないまま、もう宿舎まで帰ってきてしまった。