※このお話は本編に登場した他の本丸のその後を書いたものです。全く夢小説ではありません。オリキャラ審神者とその本丸の話しかありませんので、ご了承ください。
※刀剣破壊が出てきます。(ササキ、イトウ、ハシクラ、アラキの回)
※一部恋愛要素があります。そのつもりで書いていないものもそのように読めるかもしれません。お気を付けください。(男性審神者のところはないです。)


美濃国第〇番本丸 三日月宗近・エノモト(三十代男性)
大和国第〇番本丸 愛染国俊・明石国行・ササキ(二十代女性)
備前国第〇番本丸 太鼓鐘貞宗・フジミネ(六十代男性)
山城国第〇番本丸 山姥切国広・ジンノ(二十代男性)
越中国第〇番本丸 宗三左文字・イトウ(三十代女性)
豊後国第〇番本丸 大倶利伽羅・加州清光・ハシクラ(二十代男性)
石見国第〇番本丸 篭手切江・サクライ(二十代男性)
周防国第〇番本丸 燭台切光忠・鶴丸国永・アラキ(三十代女性)
武蔵国第○番本丸 燭台切光忠・タナカ(十代男性)





美濃国第〇番本丸 三日月宗近・エノモト(三十代男性)
「おお、帰ったか。おかえり〜」

 執務室のベッドから手を振ったのは、この本丸の主である榎本。持病があり、霊力こそ全本丸中トップクラスの能力を持っているが、実働はからっきし。調子が良い日がなくもないが、基本的にはベッドで過ごす日々を送っている。近侍である平野藤四郎が献身的にサポートをして、どうにか仕事はこなしている。
 そんな榎本が手を振った先にいるのは、八歳の息子と三日月宗近。今し方現世任務から帰還したばかりだ。息子が走ってベッドに近寄ると「パパ、今日は大丈夫?」と布団を軽く掴んで問いかける。榎本はそれに「まあまあかな」と返した。

「主、ただいま戻った。カケルは今回も良き働きであったぞ」
「三日月むかつく。僕のこと子ども扱いしてくる。何も分かんないくせに」
「ははは、今回もこんな感じでな」

 榎本が苦笑いをこぼす。最近の三日月宗近のマイブームが、なぜだか息子のカケルを拗ねさせること、なのだ。カケルは拗ね方が尋常ではないのでぜひやめてくれ、と何度言っても聞かない。飽きるまで放っておくつもりでいる。
 病気がちで任務に出られない榎本に変わり、審神者代行を務めているのが息子のカケル。弱冠八歳という審神者代行だ。当初は八歳の子どもを認めるかどうかで政府本部はかなり揉めたらしい。万が一何かあったときに責任を取ることができない。そう何度も榎本に言ったが、息子以外に代わりを務められる者がいないため、息子が認められないときは審神者を引退するしかないの一点張り。政府が外部からスカウトした者を紹介しても突っぱねられる。榎本の優れた霊力を失うわけにはいかず、渋々カケルの審神者代行は認められた。これが、ふたを開けてみれば天才だったのだから誰もが驚いた。榎本は驚く政府の人間の顔が見たくてあえて黙っていたのだ。それが担当者にバレてこっぴどく叱られたのももういい思い出になっている。
 榎本が「ほらカケル、手洗ってお母さんに報告してきな」とカケルの頭を撫でる。それに「はーい」と実に子どもらしい返事をして、カケルは執務室から出て行った。

「……大きくなられましたね、カケル様」
「そうだなあ。あんなに小さかったのがもう八歳だもんなあ。美里も天国でびっくりしてるだろうよ」

 美里、というのは榎本の妻、つまりはカケルの母である。榎本は病弱でほぼ寝たきりの生活のため、特例として妻も本丸に居住することが認められていた。美里は本丸でカケルを産み、その二年後に病気で帰らぬ人となった。存命の際は全員から奥方様と呼ばれ、母のように慕われていた。享年三十三歳。若すぎる死であった。
 美里が亡くなってから、カケルの世話はこの本丸の全員で見てきた。美里はとても良き妻であり母であった。なかなか同じようにはできなかったが、本丸の誰もがカケルの成長を楽しみにしていた。母親代わり筆頭は意外にも大倶利伽羅であった。カケルが妙に大倶利伽羅を気に入り、くっついて離れなくなったため自動的に大倶利伽羅はカケル担当になった。はじめは嫌がっていた大倶利伽羅も徐々に嫌がらなくなり、半ば諦めたという形でカケル担当を買って出ていたものだ。
 カケル、という名前は仮の名前である。審神者代行であっても刀剣男士に真名は明かせられない。本丸で生まれ育ったカケルにとっては、名前を教えてはいけないというのは常識だ。本当の名前を知っているのは父だけという状態にも特に疑問を抱いていない。小さい頃からその才能に気付いていた榎本の英才教育の賜でもある。まあ、だからといって、IQどうとかの天才児になるとは夢にも思っていなかったが。
 ごほ、と榎本が咳をした。すぐに平野藤四郎が白湯を手渡すと「ありがとな」とそれを受け取る。喉を潤わせるように少量飲み、息をつく。その様子に平野藤四郎が「休みましょう。後はお任せください」と言って開いていた襖を閉める。

「なあ、平野」
「はい。なんでしょう?」
「カケルのこと、頼んだからな。もう俺はそう長く、」

 ない、と言おうとした榎本の口が止まる。おどろおどろしくも感じる霊力が、のし掛かるように感じられた。口が開いたまま固まっている榎本が表情をひくつかせる。
 榎本の本丸における最強は平野藤四郎である。誰よりも早く修行へいき、誰よりも早く練度が振り切った。もう今では右に出る者がいない。大太刀だろうが槍だろうが薙刀だろうが、体が倍以上大きい者でも誰も敵わない。不動の最強を譲ったことはなく、全本丸の平野藤四郎の中でもトップと言っても過言ではないくらいの実力者となっている。
 そんな平野藤四郎の圧は、いくら霊力に優れていたとしても、人間には太刀打ちできないものだ。平野藤四郎がじっと榎本を見つめたまま「よく聞こえなかったので、もう一度お願いできますか」と榎本に問う。それに榎本は思わず「いや、何も言っていないよ」と返す。平野藤四郎はにっこり笑って「そうでしたか。空耳ですね」といつも通りの顔に戻った。
 榎本は内心で「おっかね〜」とおどけて呟く。もう二度と死に関わることは言わないようにしよう。そんなふうにこっそり誓う。思えば、審神者でも何でもない榎本の妻・美里が亡くなったときもそうだった。一週間以上本丸は悲しみに暮れていたし、中でも本当の子どものように懐いていた今剣や膝丸の落ち込みようは、見ている側も落ち込むほどだった。時間をかけて全員の心の回復をひたすらに待ったものだった。榎本自身も妻を亡くした喪失感と戦ったが、刀剣男士たちの沈み方は想像以上のものだった。主あってこその刀。主でなくとも生活を共にした人間への想いは一入であった。
 そんな本丸の唯一の太陽が、カケルだった。まだ美里が亡くなったことをいまいち理解していなかったということもあるが、誰よりも笑い誰よりも話し、誰よりも元気だった。そんな姿に次第に本丸は元気を取り戻し、傷は消えないけれど誰もがそれと共に生きていく決意ができた。今でも本丸の誰もがカケルに救われているのだ。

「主」
「うん?」
「どこまでもお供します。お忘れなきように」
「……分かった分かった。ごめんて」

 そう笑い合った穏やかな空間に、突如としてとんでもない音が入り込んできた。ガシャン、という大きな音の後に何かが崩れ落ちる音。すべて金属製の何かの音だった。その後すぐに膝丸の「カケル何をしている!!」というとんでもない声量の怒鳴り声。そのあとカケルが楽しそうに笑う声が聞こえ、ドタバタと廊下を走るいくつかの足音が響いた。

「平和だなあ」
「へ、平和なのでしょうか……」

 平野藤四郎が苦笑いをこぼしたと同時に、カケルが大きな声で「大倶利伽羅ー! 膝丸が怒ったー!」と叫んだ。まあ、確かに、平和ではあるかもしれない。平野藤四郎はそう思いつつも「様子を見てきます」とまた苦笑いをこぼした。




大和国第〇番本丸 愛染国俊・明石国行・ササキ(二十代女性)
 本丸への転送が完了されて、笹木はすぐにその場に座り込んだ。明石国行が少し黙ってから「主はんが無事なんやったら俺らの勝ちや」と背中を摩りながら隣にしゃがむ。けれど、笹木はそれに何も応えることができなかった。
 愛染国俊は自ら志願する形で今回の任務の同行者となった。練度は申し分なかった。現代に送られてからも難なく任務をこなしていた。あの任務が狂ってさえいなければ、当たり前に本丸に帰還していた、はずだった。
 笹木の目の前だった。愛染国俊は五体の大太刀に囲まれて、一気に振り下ろされたその大太刀を避けきれず、折れた。明らかに誘い込まれた窮地だった。それでも、どうしようもなくて、罠だと分かりつつもかかるしかなかった。現代に時間遡行軍があんなに潜り込んでいるなど、誰が予想できただろうか。システムを介している審神者と刀剣男士ですら入り込むのが困難な時代だというのに。だから、少し油断していたところもあっただろう。
 愛染国俊が折れる直前に、大太刀が一斉に自分に刀を振り下ろす瞬間に走って逃げろと言われていた。そんなことはできないと笹木は泣いて嫌がったが、愛染国俊が「それじゃあ、俺は無駄死になっちまうな」と笑った。その顔を見たら、覚悟を決めたその言葉を突っぱねられなくなった。そうしてそのときが来たとき、愛染国俊は確かに、笹木を見て笑ったのだ。穏やかな顔で。その顔が、今も笹木の脳裏から消えてくれない。
 大太刀は機動力がないとはいえ、人間である笹木が逃げ切れるかは五分五分だった。できる限り入り組んだ細い道を走り続け、笹木は慌てて飛び乗った地下鉄の中で、通信機器で本部と連絡を取ってから明石国行を顕現させた。笹木は靴を履いておらず、ところどころを怪我していた。そんな笹木の様子を見た明石国行は、静かに目を伏せて「よう逃げ切ったな。さすが国俊やわ。主はん、生きとってくれてありがとうな」とだけ言った。普段は絶対にそんなことをしない明石国行が、人目も憚らず笹木を抱きしめて、静かに泣いた。そのときのことも笹木は忘れられずにいる。
 戻ってきた笹木と明石国行に気が付いたらしい蛍丸が執務室に入ってくる。泣きはらした顔。一目見ただけで笹木にはそれが分かってしまう。それでも、笹木の前では泣かずに「主さん、怪我大丈夫?」といつも通りの声で言った。
 明石国行が「主はん今日はもう寝かすで、他の人らには挨拶来るなら明日って言うといてくれへん?」と蛍丸に言う。蛍丸がそれに「うん」と返し、静かに執務室から出て行く。その背中を見つめて、笹木は唇を噛んだ。

「ああ、そういや、飯まだやったな。なんか持ってこよか」
「明石」
「はいはい」
「ごめんね。ごめん。ごめんなさい」

 小さく震える笹木の背中を、明石国行が静かに撫でる。「謝ったってどうしようもないで。ええから今はゆっくり休んどき」と言う。ぶっきらぼうな言い方だが、笹木には分かる。明石国行なりの気遣いなのだ。
 いつもならそんなことをしない明石国行が、笹木の布団を敷いてくれた。一応この本丸の近侍を務めているのが明石国行だ。けれど、ほとんど仕事はしておらず、ただただ笹木のそばにいるだけのことが多い。それでも近侍から外れないのはそれが笹木が求める近侍だったからである。明石国行もそれをよく分かっている。だから、ほとんど仕事のことには手を出さないし、笹木に必要以上に構うこともない。でも、本当は、こうしてちゃんと面倒を見てくれる近侍だ。本丸の誰もがそれを知っているから、明石国行が近侍であることに不満はない。
 布団を敷いた明石国行が、笹木の腕を掴んでずるずると引っ張る。笹木を布団に寝かせると「寝たら大抵のことはどうでもようなるやろ。今はとにかく寝とき」と言って、笹木に布団を掛ける。笹木も大人しく目を瞑った。

「主はん、目瞑ったまま、これだけ聞いてほしいんやけど」
「……うん、何?」
「おんなじこと言うけど、生きとってくれてありがとうな。国俊のこと、信じてくれてありがとうな」

 雨が降り出したような声だった。笹木は絶対に目を開けないように瞼に力を入れる。それから明石国行が「それだけや。ほな、また明日」といつも通りの声で言って、静かに執務室から出て行った。




備前国第〇番本丸 太鼓鐘貞宗・フジミネ(六十代男性)
 近侍である燭台切光忠は、厳しい顔をしてただただ黙りこくっている。備前国サーバ本部へと呼び出された審神者である藤嶺と、護衛の燭台切光忠とにっかり青江。藤嶺は先ほどから俯いて覇気のない声で話し続けている。
 太鼓鐘貞宗が時間遡行軍に意識を乗っ取られ、多くの審神者と刀剣男士を死に至らしめた。そして、藤嶺は脅されてはいたが、政府所属であったその知識を使い通信機器に細工をした。それは明確な裏切り行為である、と本部職員から追及を受けているのだ。
 太鼓鐘貞宗は現在も手入れ中で意識が戻らないままである。戦で受けた傷であれば手入れ時間が大まかに出るが、今回はあまりにも特殊な負傷のためにいつ手入れが完了するか分からない状況だった。手入れ部屋に交代で誰かが入り、太鼓鐘貞宗の様子を窺っている。それは意識が戻るのを待っているのはもちろんのことだが、完全に時間遡行軍の気配が消えているのかの確認でもある。目を覚ましたときにまだ時間遡行軍の意識が残っているかもしれない。そんな警戒の意味がある。心苦しく思いながら全員が太鼓鐘貞宗の様子を窺っているのだ。

「藤嶺さん……僕はあなたがそんなことをする人だとは、思いたくなかったです……」
「……申し訳ありません。私はどんな処遇でも受けます。ただ、ただ、太鼓鐘貞宗の刀解だけは、どうか」
「それは手入れが完了してからの検査になるので、今は何とも言えませんね……」

 別の職員がため息を吐く。「とんでもないことしてくれたもんだな」と言ったのは、藤嶺の元同僚である。現在はシステム管理部室長に納まっており、能力はある人間だが物言いがあまり良くないことで有名だ。先ほどから藤嶺を執拗に責め、その責任のすべてを藤嶺に負わせようとしている。
 にこやかな顔をしているにっかり青江の隣で、燭台切光忠はひたすらに耐えていた。今にも職員に斬りかかりそうな圧を感じているのはにっかり青江だけである。先ほどから何度か小声で「漏れ出しているよ。殺意がね」と注意している。
 主の責任なのか。そもそもは現代に時間遡行軍の侵入を許し、あんな状態になるまで手も足も出なかった政府側にも責はあるのではないか。イレギュラーな攻撃を受けた主だけが責任を負わされるのか。燭台切光忠は今にもそう叫びそうだった。
 燭台切光忠は初期から近侍と第一部隊隊長を務めている。そんな忙しい中でも欠かさず藤嶺に夜食を振る舞ったり、練度の低い刀剣男士の稽古に付き合ったりする、とても面倒見が良い刀剣男士である。ただ、自己主張をすることがほとんどない。自分の希望は言ったことがなく、言ったとしてもアドバイス程度に留めている。いつも他の人を優先してばかり。藤嶺はそれが少し気がかりであった。
 だから、誉を百個取った褒美として、何でも願いを叶えると言ったのだ。もう三年前のことになる。そうでも言わないと自分の望みを言うことはないだろう、と藤嶺なりに燭台切光忠を思っての申し出だった。戦果の報告をしているときに突然藤嶺に告げられた燭台切光忠は、とても動揺した。まさかそんなふうに言われるなんて夢にも思っていなかったからだ。
 最初は遠慮して他の人の為になることを言ったり、そんなことはしなくていいと言ったりしたが、藤嶺が根気強く聞けばようやく口を開いた。「貞ちゃんに、会いたい、かなあ」と。それがこの本丸の燭台切光忠がはじめて口にした、自身の願いだった。燭台切光忠はすぐに「冗談だよ、冗談。ごめんね」と言ったが、藤嶺は聞かなかった。その日から遠征の部隊を組み直し、十分あるにも関わらず資源の調達に全力を尽くした。第一部隊の編成も組み直して、太鼓鐘貞宗の気配が一番強い戦場に部隊を送り続けた。無傷で帰ってくることの難しい戦場である。手入れの数はこれまでの三倍になった。六十代で霊力純度の最盛期を過ぎている藤嶺にはなかなかきつい日々だっただろう。それでも藤嶺は諦めなかった。その苦労が実を結び、三年後にようやく太鼓鐘貞宗が顕現したのである。
 そんな藤嶺のことを知らないくせに、目の前にいる人間共は、やれ裏切り者だやれ断罪だと喚いている。それが燭台切光忠には許せなかった。もちろん藤嶺のしたことは完全に潔白の無罪というわけではない。それが原因で命を落とした者がいる。それは事実だ。変えようがない。罪は背負って生きていかなければならない。それでも、こんなふうに意地汚く罵られることなのか。そう拳を握りしめている。
 藤嶺の元同僚が大きなため息をついて「これは大スキャンダルになるなあ。演練も受けてもらえなくなるんじゃないか?」とにやにや笑った。その言葉はつまり、今回の件はすべて藤嶺の罪であると公表するという意だ。時間遡行軍による刀剣男士の乗っ取り、というあまりないケースにも関わらず、すべて藤嶺に罪を被せるつもりだった。
 燭台切光忠が藤嶺の後ろから口を開こうとした、その瞬間だった。何の音もなくテーブルが真っ二つに割れた。割れたというよりは、斬られた。あまりにも美しい切り口はそういうふうに仕上げたのかと思うほどのものだった。
 落ちていった資料が床に散らばり、コーヒーが入っているカップは粉々に割れた。目を見開いた職員と、藤嶺、そして燭台切光忠が真っ二つになったテーブルを見つめてから、ゆっくり視線を動かす。

「おや、どうしたのかな。幽霊でも見たような顔だね」

 唯一にこにこしたままのにっかり青江がそう言う。燭台切光忠が口元をひくつかせる。やってしまった。君がキレるのかい。そんなふうに。ここで手を出すのは一番の悪手である。さらに罪を着せられる可能性があるからだ。だから、燭台切光忠は口を開こうとしたというのに。燭台切光忠が怒りで暴走したら止めるように、ともう一人の護衛として選ばれたにっかり青江が先に刀を抜いてしまった。本丸の誰がそんなことを予想できただろうか。そんなことをしないからと選ばれたのだから、誰も予想しているわけがない。
 藤嶺の元同僚が「貴様、政府に刃を向けたな!」と激昂する。刀解だと喚き、藤嶺の罪はより重くなると怒鳴る。燭台切光忠がどうにかフォローしようと頭を捻るが、とんと良い言い訳が出てこない。藤嶺は「私のせいです、私が処罰を受けます」と必死に訴えるが、聞く耳を持たない。

「へえ、君は僕がこの机を斬ったと言うのかい」
「そうだろう! 叛逆罪だ! 今すぐ刀解の命令を、」
「君はそれを見たのかい。僕が刀を抜いた瞬間を、僕が机を斬った瞬間を、見たのかな?」
「み、見てはいないが、お前に決まっている! それかそっちのお前だろう!」
「なぜ? 見てもいないのに決めつけるのはどうなんだろうねえ」
「そんなもの防犯カメラにいくらでもっ……」
「防犯カメラ? そんなもの、どこにあると言うんだい」
「……クソッ」

 にこやかな顔のにっかり青江の顔を見たまま、職員が固まる。そう、この場所には防犯カメラは一つもない。職員があえてそういう場所を選んでいるからである。この場で何が何でも藤嶺にすべての罪を着せるためだ。藤嶺に不当な取り調べを行い、罪を着せた証拠となる恐れがある映像を残したくなかったのだ。この場所を職員が指定したときからにっかり青江はそれに気が付いていた。

「こう見えて僕は、元政府所属のにっかり青江でね。主が政府職員だった時代も仮の主として一緒に過ごしたんだよ。それはそれは楽しい日々をね」

 あえてずっとにこやかにしていた。いくら間抜けな人間でも燭台切光忠の表情を見れば多少の殺意を向けられていることは分かる。何かしてくるならそちら、と思わせておきたかったのだ。だから、怒っていませんよ、僕はにっかり青江だもの、にっかりしていますよ、というおちゃらけた顔をしていた。腹の中では何度斬ってやったか分からないけれど、と内心で呟いて。

「さて、見ていないものは罪に問えない。証拠がないものは罪に問えない。だから、この机が急に斬れてしまったのは誰のせいでもない。だって、誰も斬られた瞬間を見ていないのだからね」
「な、何の話だ。関係のない話で時間稼ぎのつもりか?」
「けれど、君たちの罪は、誰も見ていないのかな?」

 びくっと若い職員が肩を震わせる。時間遡行軍の現代侵入を許したのは、政府システム管理部の失態である。抜け道を潰しきれなかった政府の敗北だ。そこを有耶無耶にするために藤嶺の罪を大声で罰するのが政府の計画だった。

「見ていないものは罪に問えない。証拠がないものは罪に問えない。だったら、目撃者がいればすべて解決だね。一人じゃなく複数人、証言してくれる人がいればいいのだけど。そういえば今回の現世任務、何人の審神者と何振の刀剣男士が関わったんだろうねえ」

 にっかり青江が笑ったまま燭台切光忠に顔を向け「ね?」と小首を傾げる。それに怖気付きながら「そ、そうだね……」と燭台切光忠は苦笑いをこぼした。

「この机はどうやら幽霊の仕業のようだから誰も罪に問えないね。残念だなあ。僕が斬ってあげられたらよかったのだけど。そうだ、適当に刀を振るってみようか。もしかしたら何かが斬れるかもしれない。ああ、でも、防犯カメラの一つでもあればよかったのに。だって一つも付いていないんじゃ、ここで何が斬られても誰にも分からないからね」

 にっかり。まさしくそんな笑みに、政府職員はもう何も言うことはなかった。




山城国第〇番本丸 山姥切国広・ジンノ(二十代男性)
 ばたばたと騒がしい足音が響く。その足音の主は一期一振。現世任務で不在である山姥切国広に代わって近侍代行を務めている。普段なら粟田口の刀たちに足音を立ててはいけない、と注意をする側の一期一振だが今日に限っては違う。今日は審神者である甚野、ならびに近侍である山姥切国広が帰還する日。一期一振は昨日の夜から胃痛を抱えつつ今日を迎えた。
 甚野はとにかく無鉄砲で、恐らく本人は自分のことを無敵だと思っている節がある。以前の任務では素手で時間遡行軍をぶん投げたこともある。その報告を楽しげにしてくるものだから手の付けようがない。演練で当たった本丸の審神者からは「脳筋」と言われているのを聞いたことがあるが、まさしくその通りである。大体のことは力でどうにかなると思っており、本丸の大体全員も同じ考えらしい。そのため、一期一振は顕現してからずっと胃痛を抱えながら職務に当たっている。
 前回の任務では山姥切国広は中傷、甚野は左腕を骨折、という状態での帰還であった。なぜ左腕が折れているのか、と一期一振が問うと当たり前のように「脇差の野郎ぶん殴ったら折れた」との返答だった。なぜ審神者が時間遡行軍とタイマンで戦うのか。一期一振が真顔で山姥切国広に詰め寄ると、山姥切国広は目を逸らして「俺は全力で止めたぞ」と動揺しきった声で言ったものだ。基本的には我関せず、という様子の鶯丸ですら「命は大事にしろ」と甚野に声を掛けてくるほどの惨事であった。
 さて、今度は何をやらかしてどこを怪我した状態で帰還してくるものか。一期一振はそれを考えると、つい嫌な想像ばかりしてしまう。そのうち片腕くらいは落としてきそうだ。そんなふうにキリキリ痛む胃を押さえつつ、執務室の前に到着した。
 声を掛けてから静かに襖を開ける。すでに帰還している甚野が「お、一期!」と明るく言った。山姥切国広も「今戻った」と一期一振に声を掛ける。それに「お疲れ様でした」と声を掛けつつ、一期一振はかすかに動揺していた。
 無傷。甚野も山姥切国広も見た感じ一切怪我をしていない。これまでの任務で無傷だったことなど片手で数えられるほどしかない。今回の任務はどうやら難航している様子が伝わってきていたし、確実に骨の一本は折ってくると踏んでいたというのに。

「なぜ……無傷なのですか……?」
「いや、主の無傷を喜べよ」

 けらけら笑った甚野が「とりあえず飯〜」と伸びをしながら執務室から出て行く。それに続く山姥切国広は「代行ご苦労だった。空けてすまなかった」と一期一振に声を掛ける。一期一振にとってそれはそこまでの問題ではない。練度が振り切り、久しく出陣の命もない。遠征の付き添いや本丸の運営に関わることばかりだ。端的に言えば、まあ、それなりに暇がある。やんわりそう言うと山姥切国広は「そうか。頼もしいな」と柔らかく笑った。
 それに、おや、と一期一振は思う。恐らく任務中に何かいいことがあったのだろう。そんなふうに予想はしたが、山姥切国広は言いたいことは自分から言う質だ。言わないということは聞かないほうがいい。そう、微笑むに留めておいた。
 廊下を騒がしく歩いて行く甚野を見つけたのは小狐丸。「ぬしさま、おかえりなさいませ」と眩しく笑う。この本丸で最も甚野に懐いているのは小狐丸である。本丸に来たばかりの頃は甚野にくっついて離れなかったほど。そのためか近侍である山姥切国広を目の敵にしており、道場で見かけるといつも勝負を吹っ掛けている。山姥切国広は基本的に鍛錬が好きなので、それを嫌がらせだとは気付いていない。ちなみに勝敗は山姥切国広の全戦全勝である。どちらも練度が振り切ったのちに修行へ行っているが、小狐丸はまだ極認定を受けてから三ヶ月ほどしか経っていない。元第一部隊隊長にはまだ及ばないようだ。

「ただいま。なんか食べるものある? 腹減ってさ」
「夕餉の残りがあると歌仙兼定から聞いておりまする。今夜はちゃーはんでしたよ」
「チャーハン?! マジで?! 今まで中華はラーメンしか出たことないだろ?! 誰が作ったやつ?」
「長船一派です」
「長船一派って言い方やめろ」

 賑やかな甚野の声が聞こえたらしい。厨房から顔を出した燭台切光忠が「あ、おかえり。今回は無傷だったんだね」とにこやかに言う。基本的にこの本丸で甚野のことを胃が痛くなるほど心配しているのは一期一振だけである。他の者は「刀で斬っても死なない人間だから大丈夫」と思っている節がある。燭台切光忠もその一人だ。
 燭台切光忠の下から後藤藤四郎が顔を出した。「ちゃーはんうまかったぜ!」と笑う。

「やばいだろ、うちの本丸についに中華料理が? よく歌仙が許したな」
「小夜くんに協力してもらったんだ。みんな食べたがっていたしね」
「長船怖いわ〜」

 夕餉の片付け中らしい。きちんと甚野と山姥切国広の分は確保してあるらしく、燭台切光忠が「温めるね」と言って厨房に引っ込む。それを追いかけるように厨房へ入ると、当番で皿洗いをしている南泉一文字がいた。

「あ、南泉」
「んあ? あー主、帰ってたのか」
「お前はもうちょっと俺を審神者扱いしてくれ」
「そんなこと言われてもにゃ……」
「ああ、でさ。現世任務であいつに会ったぞ。長義」
「…………あ〜っそ。どうでもいいにゃ……」
「もうちょっと興味を持てよ」

 けらけら笑いながら甚野が厨房内にある椅子に腰を下ろす。興味がなさそうにしている南泉一文字に構わず、山姥切長義の話をはじめる。南泉一文字はそれに「はいはい」とあしらうように相槌を打つ。それでも、ちゃんと話は聞いているようだった。
 その隣で話を聞いている燭台切光忠は興味深そうだ。「特命調査、うちは行かなかったから結局お迎えできずじまいだね」と言いながら甚野にお茶を出す。甚野は審神者としての能力を買われており、月に一度のペースで特殊任務に就いている。今回のような現世任務ももちろん含まれており、そのために特殊任務以外の長期任務はあまり受けられないのだ。

「で、なんか国広が嬉しそうだったからさ。今度特命調査があったら受けよっかなって」
「はあ?! やめとけやめとけ、あんにゃやつ来たら小煩くて嫌になるだろ!」
「とか言いつつ、お前演練で長義がいたらじーっと見てるんだろ。小烏丸が言ってたぞ」

 旧知の仲なのだ。話したいこともあるだろう。そんなふうに甚野が笑うと、南泉一文字は「ね〜〜よ」とかったるそうに呟く。すべての皿を洗い終わったらしく、スポンジをきれいにしてから手を拭き、逃げるように厨房から出て行った。

「特命調査って次いつあんだろ。聚楽第が開いたのって去年の夏頃か?」
「そうだね。特命調査も場所が増えてきているから、もうしばらく聚楽第はないんじゃないかな。そもそも開かないことが一番だしね」
「ま、だろうな。気長に待つか」

 温められたチャーハンが出てきた。甚野は「マジでチャーハンじゃん、やばいだろ」と興奮気味に燭台切光忠に言う。にっこり笑った燭台切光忠が「それを食べた歌仙くん、三杯おかわりしたよ」とこっそり言う。歌仙兼定はこの本丸における絶対的厨房責任者である。基本的に和食をメインとした献立が組まれている。洋食が出ることはあれど、中華はこれまで敬遠されていた。歌仙兼定曰く「油が多くて雅じゃない」とのことだった。甚野が食べたいと言ってもダメの一点張り。ついには中華系の調味料をすべて捨てんばかりの勢いだったため、誰も中華料理を食べたいとは言わなくなっていた。
 それがなぜ、突然チャーハンが許されたのか。甚野はチャーハンを頬張って「泣きそう……」と目を細める。食べる手が止まらない。そんな様子の甚野に燭台切光忠が満足げに笑う。じっと様子を見ていた小狐丸と後藤藤四郎も同じく笑った。

「ちなみにどういう作戦で?」
「歌仙くんの歌詠みに小夜くんがよく付き合っているだろう? そのとき歌に何が何でもチャーハンの存在を入れてもらってね」
「やることがえげつないな……歌仙怒っただろ……」
「呆れて諦めてくれたよ。で、いざ食べたら正式メニューに採用されたんだ」

 甚野が笑っていると、足音が聞こえてきた。ものの数秒で「何の匂いだ」と山姥切国広が厨房に顔を出す。そうして甚野が食べているものを見て「残飯か?」と怪訝そうな顔をした。

「ちょっとちょっと山姥切くん。聞き捨てならない台詞だね。これは長船派が作った最高傑作のチャーハンだよ」
「ちゃー……ああ、主が食べたいと騒いでいたやつか」
「国広絶対好きだって。だってお前任務中、三食牛丼食ってたし」
「頼むからそれ歌仙に言うなよ……」

 後藤藤四郎が苦笑いをこぼす。健康管理にはうるさい本丸だ。おやつの時間もしっかり決まっているし、栄養バランスもしっかり考えられた食事がきっちり出てくる。それもこれもすべて甚野のことを思ってである。だから甚野は任務中で本丸のみんなの目が届かないところでもそれなりに食べるものには気を付けているほうだ。山姥切国広は特にそういうわけでもないようだが。
 山姥切国広の分を燭台切光忠が温めてやり、「はいどうぞ」と笑いながら机に置いてやる。山姥切国広は渡されたスプーンを受け取り、米を掬う。そうして口に入れた瞬間、明らかに固まった。

「どう?」
「うまいだろ?」
「……燭台切……あんたは天才だ……」
「ほら見ろやっぱり! 絶対国広は好きだと思った!」
「やった。じゃあこれ、毎週水曜日のメニューにしようかな」
「水木金でもいい」
「水木金土日でもいい」
「はいはい」

 おかしそうに笑った燭台切光忠が夕餉の片付けに戻る。小狐丸が「私もちゃーはん好きですよ」とにこにこした。




越中国第〇番本丸 宗三左文字・イトウ(三十代女性)
――数年前
 この本丸の宗三左文字は、誰かに褒められることを嫌う。期待されることも好きではなく、いつも皮肉を言ってばかり。それは主である伊藤に対しても変わらなかった。けれど、現代風にいうとマイペースではあるが、誰よりも他の者を観察している。皮肉を言いつつも相手を折るような言葉は言わない。そんな刀剣男士であった。
 伊藤はそんな宗三左文字を近侍にし、何と言われようとも主力として評価し続けた。伊藤のことを物好きだとか何とか言って嫌がった。出陣の命が下ればなんやかんやと文句を付けたし、部隊を率いることになれば編成に口を出しまくった。伊藤はそれに笑いながらしっかり付き合った。いつもいつも笑って。そうして、宗三左文字は次第にそういうことを言わなくなった。伊藤の言うことだけは黙って聞くようになり、他の刀剣男士たちは驚いたものだった。
 宗三左文字は、たった一度だけ折れそうになったことがある。まだ今の半分くらいしか刀剣男士がいなかった頃のことだ。その頃に刀剣破壊から一度だけ守ってくれる御守が開発され、伊藤の本丸にも試作品の一つが配布された。伊藤がそれを渡したのが宗三左文字であった。宗三左文字は練度の低い者や刀装の数が少ない短刀に渡しなさい、と諭した。けれど、伊藤は頑なに譲らず。宗三左文字は渋々それを受け取り、はじめて向かう戦場へ赴いた。そこではじめて検非違使に遭遇した。部隊長だったへし切長谷部、隊員の五虎退、今剣、鳴狐が中傷、獅子王が重傷。そして、宗三左文字は刀剣破壊に遭ったものの御守の効力で重傷で持ちこたえ、どうにか本丸に帰還した。
 手入れ部屋で目が覚めた宗三左文字は、斬られて効力を失った御守をぼんやり見つめた。だから僕に渡さないほうが良いと言ったのに、と独り言を呟いて。自身が勝手に数値化されたもので能力が低めであると評価されていることは知っていた。そうでなければ演練で嫌味を言ってくる審神者はいない。だから、しっかり評価されている刀剣男士に貴重品は渡してやればよかったのに。そう思っていた。
 手入れ部屋に入ってきた伊藤は宗三左文字の姿を見るなり、子どもみたいに泣いた。さすがの宗三左文字もぎょっとして「迷惑なのでやめてください」と言いつつ、仕方なく涙を拭いてやる。ひとしきり泣いた伊藤が布団の傍らに置かれている御守を見て「渡しておいて本当によかった」と、効力を失っている御守を握りしめて言う。宗三左文字はその姿を見て、なんだかばつが悪くなったものだった。まだ試作段階で一つしかない御守。それを早々に消費してしまったというのに。そんなふうに。
 誰よりも近侍になりたがっていたへし切長谷部とギャアギャア口喧嘩をしつつ、いつものらりくらりとしている。折れそうになったあの一件以降もそれは変わらなかった。けど、一つ変わったことがあるとすれば、妙に伊藤の世話を焼くようになった。近侍補佐をしている小夜左文字が驚くほど、宗三左文字は伊藤の世話を焼いていた。けれど、それは決まって伊藤が見ていないところだけのことだった。どうして伊藤に気付かれないように世話を焼くのか。小夜左文字がそう素直に聞いてみると、宗三左文字は薄く笑って「気付かれたら癪なので」とだけ教えてくれた。小夜左文字は、その言葉の意味を、未だに分からずにいる。

――現在
 緊急退去の報せを受けたのは近侍代行の小夜左文字であった。政府からの簡易的な連絡には、審神者が五分後に本丸へ戻ることと、同行していた宗三左文字は破壊されたことだけが書かれていた。小夜左文字はその連絡を受け、しばらく固まって動けずにいた。ぼんやりとどこか刺すような痛みを感じる視線。それを政府からの無機質な文章に向けてただ黙りこくる。そこへ通りがかったへし切長谷部に声を掛けられ、小夜左文字はどうにか動くことができた。
 執務室に転移してきた伊藤は、小夜左文字たちが見たことがないくらい弱っていた。体中に怪我をしており、これっぽっちも生気がない。意識は戻っておらずいつ容態が急変してもおかしくない様子だった。少しでも目を離せば呼吸が止まってしまうかもしれないと思うほど。それを目の当たりにした小夜左文字は黙りこくり、へし切長谷部は何度も伊藤に声を掛けた。小夜左文字も未だに動揺を隠せないままではあったが、そっと伊藤の手を握って小さな声で呼びかけ続けた。
 程なくして政府から派遣されてきた医師がやって来た。伊藤の状態としては三十九度を超える発熱、肋骨と右肩の骨折、脇腹に切創。それから頭を強く打った恐れがあり、脳震盪を起こしている可能性があるとのことだった。集まってきた他の刀剣男士たちとともに、容態の説明を受けた小夜左文字が完治するまでの時間、自分たちは何をすればいいのかなどの質問をしていく。女性医師がすべて丁寧に返答すると、小夜左文字は「ありがとう」と頭を下げた。

「ああ、あとこれ。ポケットに入っていたから一応返しておきますね」

 女性医師から手渡されたそれを見た瞬間、小夜左文字は目を丸くして固まる。ずいぶんぼろぼろになった、今にも半分に千切れそうな御守。見慣れない模様が描かれたそれは、過去に政府が試作品として作ったものであった。
 不思議そうな顔をした大包平が「なんだそれは」と隣にいた鶯丸に問う。「さあ。主にもらったものに似ているな」と鶯丸も首を傾げた。この御守を見たことがあるのは初期から本丸にいる者のほんの一部だけ。伊藤から受け取ってすぐにその役目を果たしたものだから、比較的新しい刀剣男士は見たことがないのだ。
 これは、昔に伊藤が宗三左文字に渡したものだ。宗三左文字を刀剣破壊から守り、役目を果たしてただの汚れた御守になったもの。壊れてからも宗三左文字が捨てずにずっと、着物のどこかに隠し持っていたもの。そのことは小夜左文字だけが知っている。きっと伊藤も知らない。伊藤が持っているはずのないものだった。
 任務の中で伊藤は意識を失い、ずっと寝たきりになっていたと小夜左文字は最後の定期連絡で宗三左文字から聞いた。他の者には心配をかけるから黙っておいてほしいとも。「必ず本丸へ戻しますから。心配しないでください。死なせはしませんよ」、それが宗三左文字との最後の会話だ。
 ぎゅっと御守を握りしめる。小夜左文字の瞳からぼろっと涙が溢れた。「宗三兄様」と呟く。けれど、もう応えてくれる艶やかな声は聞こえてこない。
 宗三左文字の言葉の意味を小夜左文字は、ようやくほんの少し理解した。「気付かれたら癪なので」。大好きだったんだね、と御守に呟いた。それを知られるのが恥ずかしくて、隠れて優しくしていたんだね。本当は誰よりも伊藤の身を案じ、伊藤の為を想っていたのに。
 自分はもう本丸に戻れないだろうと悟った宗三左文字は、きっと誰かに伊藤を託したに違いない。自分が囮になるから伊藤を逃がしてくれと頼んだに違いない。何の報告も読んでいないのに小夜左文字にはそれが分かる。そして、この御守は、もう会えない伊藤への想いがこれでもかと詰まっているものだ。どうか無事に帰ってほしい。そんな宗三左文字の想いが、小夜左文字には突き刺さるように分かってしまった。




豊後国第〇番本丸 大倶利伽羅・加州清光・ハシクラ(二十代男性)
「みんなちょお集まってくれるか」

 現世任務から帰還してわずか一時間後。箸倉は休息もそこそこに、本丸にいる刀剣男士たちを呼び集める。初期刀であり近侍を務める加州清光が呆れた様子で「は〜い、いくら言っても言うことを聞かない主のお呼びだよ〜」と気怠そうに呼びかけていく。誰もが主である箸倉の突拍子もない言動にはもう慣れっこだ。
 続々と大広間に集まってきた刀剣男士たちが、口々に「主さん今度は何やらかしたの?」と笑う。この本丸における一番の問題児は主である箸倉だ。加州清光は頭を抱えていつもフォローに回っている。今回も何かやらかしそうだな、と考えてげんなりしつつ箸倉の一歩後ろに控えていた。
 全員が集まったのを確認してから、箸倉が現世任務の報告を淡々とはじめる。箸倉は現世任務において、大倶利伽羅が刀剣破壊に遭っている。拠点で休憩中に急襲され、なんとか二人で拠点から逃げ出したが、追いかけて来た時間遡行軍により大倶利伽羅は刀剣破壊。箸倉は走りながら本部に連絡を取り、加州清光を顕現させたのち危機を脱した。
 そのことは本丸の全員が承知している。大倶利伽羅の刀剣破壊の連絡を受けてから、本丸の空気はとても重たかった。特に大倶利伽羅と近しかった刀剣男士たちは、食事も喉が通らないほどに落ち込んでいた。仲間の死がつらいのは人間も刀剣男士も同じことだ。誰もがその連絡には声が出ないほどのショックを受けた。
 けれど、審神者である箸倉の帰還日が決まってから、誰もが日常を取り戻す努力をしてきた。近侍の加州清光の代わりに本丸統括係を務める蜂須賀虎徹が中心となり、それぞれが声を掛け合い、これまでの明るい本丸の姿を取り返そうとした。元々この本丸は箸倉の性格もあり、賑やかでやかましい本丸として有名である。演練に行けば対戦相手から「相手の部隊めっちゃうるさくなかった?」とこそこそ噂され、審神者会議でも本丸番号をど忘れした政府職員が「あのうるさいところ」と口走ったこともある。そんな賑やかで楽しい本丸なのだ。大倶利伽羅という刀剣男士がそれをどう思っていたかは分からないが、ただの一度も否定するようなことを言ったことはない。それは事実である。
 そんな中で迎えた今日という日。誰もが拳を握りしめて箸倉に「おかえり」と笑顔で言った。いつも通りの顔で、声で、言葉で。箸倉もいつも通り明るい声でわーわーと言いつつ帰って来たものだった。そんな箸倉が突然全員を集めた。一体何が行われるのか、と誰もが首を傾げていた。まあ、任務の報告でもされるのだろう。そう思っていたそれぞれの予想は当たり、現在箸倉は淡々と報告だけをしている。

「と、まあ、こないな具合でどうにかこうにか任務達成っちゅう感じやな」
「俺と主はほとんど何もしてないって感じね」
「なんもしてへん言うなや、傷付くやろ」

 いつも通りのやり取り。それに一同が笑い、もう解散になるだろうと思っていた。けど、いつもなら「適当に解散してええで〜」と言う箸倉がまだ立ち上がらない。持っていた書類を置いて一つ息を吸い込むと、視線を下に落とす。ゆっくり瞬きをすると、その瞳からぽたりと何かがこぼれ落ちた。一番前に座っていた蜂須賀虎徹にはそれがはっきり見える。畳にしみを作ったそれは、この本丸に彼が顕現してからはじめて見る箸倉の涙だった。

「みんな知っとると思うけど、大倶利伽羅が刀剣破壊された。俺の実力不足のせいや。大倶利伽羅は何一つ失敗も驕りもなかった。これ以上ないくらい適切な判断をして行動してくれとった」

 箸倉は審神者になってそれなりに経ったベテランだ。特殊任務に何度も参加し、政府から優秀な本丸にだけ授けられる褒賞をもらった回数も片手では数えられない。優秀な審神者なのだ。おちゃらけていてもやかましくても、どんなに厳しい状況でも危険な方法は取らずに堅実に任務をこなしてきた。だから、これまで、刀剣破壊など起こしたことはただの一度もなかった。
 大倶利伽羅は時間遡行軍の急襲を受けたとき、すでに先の戦闘で中傷を負っていた。それまでの戦闘で霊力を大量消費していた箸倉を気遣い、手入れはもう少し休んでからでいいと拒否。拠点にいれば襲われる心配もないからと箸倉に言い、自身も眠って体力を回復させようとしていたが、それが仇となった。拠点は敵にバレており四方八方を時間遡行軍に囲まれていた。妙にすばしこい短刀に腹を切られ重傷を負いながらも、どうにか箸倉を連れて時間遡行軍の群れからは逃れられた。逃げた先、大倶利伽羅は、自身がいると箸倉は逃げられない、と判断する。足を止めて手入れをしようとする箸倉に声を掛け、箸倉が大倶利伽羅を見た瞬間、その体をすぐ近くに流れている川に突き落としたのだ。突き落とす直前に「俺の後は加州を呼べ」とだけ言って。川の流れは前日の雨のせいで少し速くなっていた。けれど、運動神経の良い箸倉を信じて大倶利伽羅は川に突き落としたのだろう。時間遡行軍の索敵にもかかりにくくなる。苦渋の選択であった。けれど、それが恐らくその場における最も適切な主を逃がす方法だったに違いない。
 ぐず、と鼻をすする音が大広間に響く。あちこちから聞こえてくる音に、加州清光が唇を噛んだ。大倶利伽羅は初期に鍛刀にて入手。当時はまだ戦力が短刀ばかりだったこともあり、即戦力として本丸の誰もが大倶利伽羅を頼った。加州清光が不在の際は第一部隊隊長や近侍を務めたこともある。仲間が増えてからは「柄じゃない」と言って引き受けなくなったが、初期からいる者は未だに大倶利伽羅を頼ることが多かった。それは、加州清光も同じである。

「自分の刀を折るやなんて審神者失格や。せやから、正味帰ってくるまでは、引退しようと思てた」

 その言葉に蜂須賀虎徹が視線を鋭くさせる。他の者も同様である。加州清光がそれに気付いて「最後まで聞きなよ〜」とわざとらしく茶化して言う。
 俯いたままの箸倉の瞳からまた涙がこぼれ落ちた。それを出し切るようにぎゅっと目を瞑り、服の袖で乱暴に目を擦る。真っ赤になった瞳を、まっすぐ前に向けると、情けなく笑う。

「せやけど、やっぱみんなの顔見たら、引退なんかできへんわって、思てまったわ」

 箸倉が鼻をすすって「あ〜」と声を出す。気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。いつもより覇気のない声に加州清光が苦笑いをこぼす。長い付き合いだ。箸倉が何を考えていたかなど、言葉を聞かずともお見通しだった。そして、こうなることも何となく分かっていた。予想はしていたけれど、箸倉がみんなを集めはじめたときは内心少しドキドキはしていた。もしかしたら本当に引退するかも、と。そうしたらどう止めてやろうか考えていただけに、話の流れに少しほっとしている。
 またこぼれそうになった涙を拭いてから、箸倉が勢いよく頭を下げた。ゴン、と音を立てるほどの勢いだ。頭を畳に思いっきり打ち付けた形になった箸倉に蜂須賀虎徹が「大丈夫かい?!」と思わず駆け寄りそうになる。片手でそれを加州清光が制すると、蜂須賀虎徹は驚いたままではあったがゆっくり腰を下ろす。

「めっちゃくちゃ、つらい、寂しい、悲しい。ほんまにどうしたらええんか分からへん。せやけど、頑張るから、もう二度とこんな思いはさせへんから、もうちょい俺についてきてくれへんか。お願いします」

 それからびーびーうるさく、子どものように泣き出した。そんな箸倉の様子に全員が困惑したが、もう予想外の言動には慣れている。笑ったり泣いたり、それぞれいろんな反応をしつつも、誰もが「もちろん」と口々に言った。




石見国第〇番本丸 篭手切江・サクライ(二十代男性)
 櫻居は本丸に帰還するなり、まず風呂に入った。慣れた執務室を見てどっと疲れが襲いかかって来たのである。風呂に入らず布団に入ることが許せず、休んだほうがいいと言う篭手切江を押しのける形で風呂へ。大浴場の湯船に浸かってぼーっと天井を眺めている。
 ほとんど何にも関与できないまま終わっていた。そう反省しているのだ。櫻居は事件の大元である太鼓鐘貞宗と藤嶺には合流していなかったため、そこまで時間遡行軍に攻撃を受けることもなく、状況把握もできないままだった。太鼓鐘貞宗たちと遭遇した際も、と山姥切長義に救われた形で大事はなく、次にから連絡が来るまでもチップがついた時間遡行軍を探すことだけに専念できていた。蓋を開けてみればチップがついた個体は太鼓鐘貞宗の中に紛れ込んでいたので無駄な努力だったわけだが。
 大きなため息。湯船に口元まで浸かって、ぶくぶくと息を吐く。これまで特殊任務に何度か就いているが、思ったような結果を出せていない。それに少し焦りを覚えているのだ。特に本丸運営に深く関わってくるわけではない。けれど、良い評価を受ければそれだけ本丸への褒美は増えていく。政府からの扱いも良くなるし、緊急事態があったときは普通の本丸より早く状況を把握できる。そういうメリットがあるから特殊任務を受けているというのに。
 今回の件は正直なところ、運が良くて悪かった、という結果である。運良く太鼓鐘貞宗との合流が遅れていたから被害に遭うことはなく、そのために事件に深く関われず右往左往する羽目になった。何を勝敗と取るかによる。櫻居としても篭手切江に怪我がなかったことは喜ばしいが、任務としては何も手が出せなかった事実に落胆している。そんな複雑な心境である。
 風呂場の扉が開いた。「お、主」と明るい声で言ったのは豊前江。その後ろからぞろぞろと篭手切江、松井江、桑名江が入ってきた。

「どうした? しょぼくれてんな?」
「しょぼくれてはない……今回もうまく立ち回れなかったことを反省してるだけだ……」
「それはしょぼくれているというんじゃないかな」

 松井江が苦笑いをこぼしながら櫻居の隣に座った。この本丸の近侍は松井江である。つい先月まで近侍を務めていた蜻蛉切からの助言で近侍が交代になったばかりである。蜻蛉切は修行を終えて極認定を受け、すでに練度が振り切っている。余程の戦場でない限りは他の者に任せ、自身は後方支援に務めている。そうなると同時に近侍の交代を申し出ていた。しばらくは櫻居が決断を先延ばしにしていたが、先月ついに蜻蛉切から再度助言され、迷いに迷って松井江を近侍に任命。現在松井江は蜻蛉切から引き継ぎを受けつつ、まだ慣れない近侍業務に忙しくしている。

「主は最終三日間の時間遡行軍討伐数はとっぷですよ!」
「お、すげーじゃん。やんややんや起こってる間にコツコツ敵を倒してたってことだろ?」
「縁の下の力持ち、というやつだね」
「十分な働きなんじゃないかな?」
「江みんな優しい……」

 ぱしゃ、とお湯が跳ねる音。豊前江が顔をお湯で洗った音だ。けらけら笑いながら「俺も任務行ってみてーな」と篭手切江を見て言う。櫻居は特殊任務には必ず篭手切江を同行させている。ただの一度も例外はなく、任務の内容や任務地に関わらずすべて篭手切江に任されている。これには櫻居なりの理由がある。第一にいつも同じ刀剣男士にしておけば、様々なトラブルなどへの対応の経験を積むことができる。第二に本丸運営において配置の変更などがしやすくなる。第三に二人で行動をすることが多いため連携が取りやすくなる。そういう理由があっていつも篭手切江を連れていくのだ。
 篭手切江をはじめに選んだ理由としては単純なもので、現世任務が入ったときでも違和感がない外見であることと、櫻居と行動を共にしていても不自然ではないこと、いい意味で付喪神っぽくないことである。ちなみに最後の理由は櫻居の持論が大いに含まれている。個人的感覚ではあるが、本丸の総意でもある。

「同行が二人のやつも稀にあるから、そのときな」
「え、そんなのあるんだ? はじめて聞いたよ」
「滅多にないけどな。極秘中の極秘任務だから、本当に優秀な審神者しか呼ばれないし」
「優秀、というと?」
「各サーバの成績三位までくらいかな」
「三位まで?! マジか、それはもう少し先になりそうだな」
「ここは何位だっけ?」
「今は十二位」
「まだまだこれからですよ、主! たくさんれっすんして上り詰めましょう!」

 毎月各サーバごとの成績順位が通知される。決まって一日の午前八時の配信だ。櫻居の本丸は今月十二位で、先月は十位であった。二つ順位を落としている。これまでの最高成績は八位。まだ上級の極秘任務に呼ばれることはない。
 順位の決定基準はさまざまで、第一に戦績。部隊がどれだけ難易度の高い戦場を、どれだけ迅速に治められるか。上位の本丸は結果だけではなく過程も求められる。後処理の的確さも評価の一つだ。第二に本丸運営の円滑さ。資源の貯蓄率や生活ぶり。政府から振り分けられる資源や運営費の使い方も細かくチェックされている。第三に審神者としての能力。霊力はもちろん判断能力や状況把握能力、不測の事態などへの対応力が求められる。提出された書類の出来も重要な評価ポイントである。第四に、人間性。これは評価の基準が明確ではなく、審神者たちには知らされていない評価基準だ。信用ができるか、政府を裏切る可能性がないかなど、評価をする担当職員のさじ加減的な要素が大きい。
 ちなみに、今回の現世任務において各サーバ順位で三位までに入っているのは榎本と甚野、そしてすでに死亡している山姥切長義を同行させていた岡本の三組のみである。それ以外は十五位以内の本丸から派遣されている。十五位以内というのも数万ある本丸の中ではとびきり優秀な証である。
 櫻居は現在、確認されている戦場のすべてを制覇して定期巡回を行いつつ任務をこなしている。刀剣男士たちももちろん優秀で練度が高い者ばかり。ただ、唯一弱点があるとすれば。

「うちはもう少し演練での成績を上げないとね」
「その通り……」

 専ら演練に弱いのである。とはいっても成績が恐ろしく低いわけではない。本丸順位に対して低い、という程度である。勝率は九割を超えている。十分な成績なのだが、恐らく本丸順位が上がらない原因はそれしかない。櫻居たちはそう考えている。
 演練にはいつも部隊編成を変えて参加している。主戦力の部隊が行くこともあれば、第二部隊が行くこともあるしはじめて編成する部隊で行くことも多々ある。普段は戦場に出向くことが少なくなった後方支援部隊が行くことも多く、刀剣男士たちにとっては腕を鈍らせない大事な機会となっている。部隊長だけは固定されており、現在は日向正宗が演練部隊の隊長を務めている。恐らくは部隊自体を固定していないことが成績が上がらない理由なのだが、誰とでも部隊が編成できるようにするための演習である、という点を大事にしている。急な出陣や本丸急襲の際に、誰とでも戦えるようにするためなので、そこを変えるつもりはさらさらないままだ。

「近侍としてこういうことは言わないほうがいいと思うけれど」
「何?」
「僕は、君が危険な任務に連れ出されないのならそれが一番かな」
「うん、言っちゃだめなやつ!」
「あはは」

 お風呂場に笑い声が響く。そのすぐあとに風呂場の扉が勢いよく開いた。そこには秋田藤四郎を筆頭とした粟田口組が仁王立ちしている。豊前江が慌てて立ち上がって「ごめんごめん、掃除な!」と言って桑名江と篭手切江の腕を引っ張る。櫻居と松井江も立ち上がると、秋田藤四郎が「いつも長風呂すぎますって注意したじゃないですか!」と腕組みをする。風呂の掃除班長は秋田藤四郎である。いつも遅くに風呂に入る櫻居と江一派を注意しているが、なかなかこれが改善されない。秋田藤四郎はいつもこの五人と戦いながら風呂の清潔を守っている。

「もう! この後夜戦部隊が帰ってくるので薬草を入れるんですから!」
「薬草湯、好きです!」

 秋田藤四郎ブレンドの薬草湯。夜戦部隊や長期任務を終えた部隊のみが入浴できる特別な湯だ。主である櫻居ですら入ったことはない。薬草湯に入るためには難易度の高い戦場へ赴く部隊に入るしかない。それをモチベーションに鍛練を積んでいるものも少なくはない。それくらい好評なのだ。
 そそくさと風呂場から出た櫻居たちは、タオルで体を拭いてから寝間着に着替えていく。その間、風呂場のほうから秋田藤四郎の「急いでお湯を抜いてください! ブラシは端から中央に向かうように!」と指示を出している声が聞こえてくる。なかなかに迫力のある現場だ。櫻居は「いつ聞いてもすごいな」とシャツを着ながら笑う。

「風呂もそうですが、食事班も掃除班も管理班も、誰もが本丸のために黒子に徹していますよ」
「誰一人として無駄なやつはいない。だから、今回の任務での主も同じってことだ」
「主がいなければ任務は完遂できていない。きっとそうだよ」
「また明日からも主らしく、僕ららしくやっていこう」
「江、優しすぎないか……?」

 櫻居は照れくさそうに笑いつつ、一つ伸びをする。「よっしゃ、明日からもよろしくな!」と拳を松井江に向ける。松井江も柔らかく笑いつつ「うん」と拳を合わせると、篭手切江たちも拳を出して二人の拳にくっ付けた。
 ガラッと風呂場の扉が開く。櫻居たちを見た秋田藤四郎が「ぱんつは穿いたほうが良いと思います」と言ってからまた扉を閉める。そのあとすぐに風呂場の中からも「明日からもよろしく!」と元気な声が聞こえてきた。全部聞こえていたらしい。大笑いしながら拳を離して、とりあえず全員パンツを穿いた。




周防国第〇番本丸 燭台切光忠・鶴丸国永・アラキ(三十代女性)
 本丸に帰還した顕木は、休むことなく執務室で書類作成に取りかかった。今回の任務で起こったこと、任務での成果、それらを忘れないうちに書き記す必要がある。記録はこまめに取っていたが、今は自分の記憶だけを頼りにすべて書いてしまいたかった。
 燭台切光忠は顕木にとってただの刀剣男士ではなかった。はじめて鍛刀した太刀であり、はじめて極め認定を受けた刀であり、はじめて好きになった相手だった。すべての刀剣男士が顕木にとって特別な存在ではある。けれど、その中でも燭台切光忠は、一等特別な存在だったのだ。
 近侍代行となった鶴丸国永は顕木に休むように進言した。今は焦って何をしてもうまくいかないだろうからと。他の刀剣男士も同じく。初期刀である歌仙兼定も執務室を何度も訪れて「休もう」と声を掛けたが、顕木は聞かなかった。書き殴るように任務での出来事を何でも書いた。正確に伝わるように、自分が忘れないように。
 想いを伝えることはしなかった。燭台切光忠はいつだって顕木の力になったし、愛情を感じるような言動をたくさんしていた。きっと顕木のことを愛していたのだろう、と顕木本人が分かるほど、それは顕著なものだった。それでも、顕木は決して自分の気持ちを告げなかった。
 指が止まる。顕木の瞳いっぱいに溜まった涙が一気にこぼれ落ちる。燭台切光忠、刀解。その文字を書いた瞬間だった。熱い涙がどんどんしみを作る。けれど、いつかは消えてしまう。それが顕木の涙を余計に降らせてしまう。
 こんこん、と開いている襖の縁を叩く音。顕木は顔を上げない。ぼたぼた落ちる涙を睨み付けてただただ黙りこくる。そこに「大将、何が食いたい?」といつも通りの声色で声を掛けたのは、薬研藤四郎だった。

「働いてくれるのは有難いが、何か腹に入れないと倒れるぞ」
「……何もいらない」
「じゃあ無理にでも食ってくれ。頼むよ、大将」

 執務室に入ってきた薬研藤四郎が顕木の隣にしゃがむ。顔を覗き込むと「な?」と優しく笑った。顕木はぼろぼろこぼれる涙をそのままに「お味噌汁」とだけ言った。
 薬研藤四郎は顕木がはじめて鍛刀した刀剣男士である。細く見える見た目に反して男気溢れる性格をした薬研藤四郎は、顕木や初期にいた刀剣男士たちにとって頼れる兄貴分である。顕木も何か悩みがあればまず薬研藤四郎に相談する。それは今も昔もずっと変わっていない。
 燭台切光忠への想いを、薬研藤四郎にだけは話していた。主である自分が恋をしてはいけないと分かっている、と前置きをした顕木に薬研藤四郎は、心底不思議そうな顔をして言ったものだ。「禁止されているわけじゃないんだ。気にせず言っちまえばいいんじゃないか?」と首を傾げて。薬研藤四郎は今でもそう思っている。けれど、顕木は言わなかった。きっと後悔することになるから、と。
 薬研藤四郎が廊下に顔を出して「歌仙の旦那、味噌汁頼む」と大きな声で言った。それに歌仙兼定が応えたようで、薬研藤四郎はまた顕木のほうに顔の向きを戻した。

「なあ、大将。俺は人間じゃないし、色恋のことは正直よく分からん。それでも大将がどれだけ想っていたのかは誰よりも知っているつもりだ」

 顕木が俯いていた顔を上げる。その反動でまた涙がぼろぼろこぼれると、顕木が小さく鼻をすする音が執務室に響いた。執務室の机にはきれいな花が一輪飾られている。これは任務前に燭台切光忠が顕木に贈ったものだ。任務の間の近侍代行を頼んであった鶴丸国永がかかさず水を取り替えていた。鶴丸国永が現世顕現をしたあとは薬研藤四郎が水を替えていた。頼まれたわけではなく、それぞれ自主的に。

「だからこそ言われてくれ。大将、今は泣いていい。けどな、燭台切がそれを望んでいると思うか?」

 酷な物言いだった。薬研藤四郎もそれは百も承知で口に出している。けれど、薬研藤四郎は刀だ。今は付喪神として人間の形を得ている。だから、今はいろんなことができるが、本来は斬ることしかできない。優しく寄り添うことではなく、斬ること。それこそが薬研藤四郎本来の役割である。
 顕木の瞳が薬研藤四郎を捉えた。ぼろぼろ涙がこぼれ落ちていき、顕木が鼻をすする。それから小さく、首を横に振った。薬研藤四郎は「だろ?」といつも通りの顔で笑う。

「燭台切の旦那はな、大将の笑った顔が一等好きだって言ってたぜ。だから、笑ってやんな。今はできなくてもいいから変わらず笑っていてくれ、大将」

 ぐいっと親指で顕木の涙を拭ってやる。薬研藤四郎は「飯、食いに行くか」と笑いかける。顕木はまた一つ涙をこぼしてから「うん」とぐずりながら声を出した。そうして二人で立ち上がると、薬研藤四郎が顕木の手首を掴む。そのまま引っ張って廊下を歩き始めると、顕木が泣きながら小さく笑った。
 本丸の刀剣男士の誰も、顕木の手を握る者はいない。顕木を引っ張るときは服の裾か手首を掴む者ばかり。短刀も全員だ。顕木の手を握ったことがあるのは、燭台切光忠ただ一人。恐らくこれからもそれは変わらないだろう。
 厨房の前に着いた薬研藤四郎が顔だけで覗き込む。「歌仙の旦那、大将連れてきたぜ」と声を掛けると「ああ、ありがとう。ちょうどできそうだよ」と歌仙兼定が和やかに言った。

「主、卵焼きも作ったけれど食べられるかい?」
「うん、食べる」
「あと俺が剥いた林檎もどうだ?」
「鶴丸が剥いたって……食べられるところ残ってる?」

 くすりと笑った顕木に鶴丸国永が少し目を丸くする。すぐにぱっと表情を変えて「刃物の扱いはお手の物さ」と笑った。大和守安定が「えーさっきまるごと一つ無駄にしてたじゃん」と無邪気に言うと、聞いていた日光一文字が「食べ物を粗末にするなと言っただろう」と呆れたように眉をひそめる。

「主、こんなことを言ったら君は怒るかもしれないけれど」
「……何?」
「君が無事に帰ってきてくれたことが何よりも嬉しい。僕たちには君しかいないのだから」
「……うん、ありがとう」
「主を守ることが何よりも栄誉なことだ。燭台切にとっては君が生きていることこそが一等級の誉だよ」

 慎重に、言葉を選んで歌仙兼定はそう言った。彼も薬研藤四郎と同じだ。本来は斬ることしかできない。けれど、人間の形を得ている今はなんでもできる。歌仙兼定は刀剣男士たちの中でも人間というものを思い切り楽しんでいると言っていい。歌を詠み、食を彩り、美を楽しむ。歌仙兼定のここ最近の日常はきれいに色付いている。そんな彼だからこそ、顕木の心に寄り添いたいと願うのだろう。人間のように言葉を尽くして、心を縁取って。

「心にゆとりができるまでたくさん泣いてくれ。そうしてゆとりができたら、任務での燭台切の勇姿を僕たちにも教えてくれるかい?」

 鶴丸国永が内心で感心する。刀であるはずのものが、これほどまでに人間に寄り添えるとは。そんなふうに。そう考えると同時に「俺もまだまだだな」と小声で呟く。燭台切光忠に替わって現世顕現した鶴丸国永は、正直なところ自分の力不足を感じていた。顕木は気丈に振る舞っていた。任務中だから悲しい顔をしてはならないと、鶴丸国永の前で悲しい顔をしてはならないと、不自然なほど悲しまなかった。それを気付いていながら鶴丸国永は、気付かないふりをしていつも通りおどけるしかできなかった。人間への慰めの言葉が思い浮かばなかったからだ。
 できる限り力にはなっていたつもりだ。鶴丸国永はそうため息をこぼす。けれど、てんでうまくいかなかった。気を遣っていると察した顕木はさらに気丈に振る舞うようになっていた。鶴丸国永はそう感じていた。まだまだ人間歴が足りないな、とこっそり反省をする。

「さて、食事の準備ができたよ。いくらでもおかわりしてくれ」

 しっかりした食事が顕木の前に用意された。お味噌汁、としか希望を言っていないのに。顕木もきちんと用意された食事を見てきょとんとしてしまったほどだ。顕木の好物ばかりが準備されている。大体何を希望に挙げるか予想をしていたのだろう。
 刀剣男士は人間ではない。政府職員の中には刀剣男士を完全な刀として扱い者も多い。刀剣破壊の悲しみが分からないのだ。刀剣男士たちは、それぞれ本物の刀ではない。本物の刀から分霊として人間の形を得ている。だから、刀剣男士が折れても本物の刀が折れるわけではない。分霊がなくなるだけ。いつでも新しい刀剣男士として顕現させられる。それが政府職員の大多数の感覚である。
 顕木を含めた審神者の多くも、そのことは理解できている。人間ではない。正式な神でもない。けれど、共に生活をしてともに戦った仲間だ。政府職員の中でも刀剣男士と共に仕事をしている者には分かる感覚だ。刀剣男士と普段関わらず現場に行かない政府職員には一生分からないものだ。
 確かに人間ではない。けれど、どうしても顕木は思ってしまう。彼らは生きている人間だ、と。そうでなければこんなに温かい食事を作ることなどできない。温かい言葉や鋭い言葉をかけることもできない。そして何より、身を挺して人間を守ることなどできない。生きていたのだ。確かに、ここで。
 お味噌汁を一口飲む。飲み慣れた味だ。いつ口にしてもほっと心がほぐされる。顕木の大好物。本丸の誰もが知っている味だ。

「鶴丸」
「ん? なんだい」
「今日から近侍、よろしくね」
「え、俺でいいのか? 歌仙でも薬研でも、他に誰でもいいんだぞ?」
「鶴丸がいい。任務中ずっといつも通りでいてくれて、とても心強かったから」

 鶴丸国永がきょとんとする。一方で薬研藤四郎も歌仙兼定も笑って「それがいい」と言う。鶴丸国永はてっきり歌仙兼定が薬研藤四郎が近侍になるものだと思っていた。特に薬研藤四郎は燭台切光忠の前に近侍を勤めていた。その能力は幅広く、戦闘はもちろん書類整理まできっちりこなせる刀剣男士だ。近侍になってもおかしくない。誰も反対はしないだろう。
 けれど、薬研藤四郎にない能力がある。それこそが、見ないふり、であった。観察眼に優れ人間の感情の揺らぎに敏感。そうして、それに気付いてしまうと口を出さずにはいられない。そういう気質なのだ。見ないふりをしようとしても、どうしてもぎこちない会話のやり取りになるし、どうしてもどこかで気遣ってしまう。不自然になるのだ。これは歌仙兼定も同じく。

「……君の力になれるなら、なんでもしよう」

 少しだけ照れくさそうに笑う。鶴丸国永の顔を見た顕木も小さく笑って、またお味噌汁を一口飲んだ。




武蔵国第○番本丸 燭台切光忠・タナカ(十代男性)
「え、もう帰ってきたのか……? 現世任務がこんなに爆速で終わるわけがないだろう……何をした?」
「僕たちに原因があるような言い方はやめてほしいかな……」
「聞いてよ長義〜!」

 近侍としての仕事をしていた山姥切長義が執務室へ田中の判を取りに来たタイミングだった。任務へ行くという報告もそこそこに出て行った田中と燭台切光忠が、帰還の連絡もそこそこに戻ってきた。突然目の前に現れた二人に山姥切長義はただただ目を見開いて固まり、手に取った判をぽとりと落としたほどだった。それから発した台詞こそ、冒頭のものである。
 田中と燭台切光忠の任務着任時間は、退去までの時間を除いて約二時間。退去にかかった時間のほうが長かった。それを田中が山姥切長義に泣きついて報告すると「へえ……俺の主を囮にねえ……」と眉尻をぴくつかせる。いつもの光景である。燭台切光忠は笑って「はいはい落ち着いてね」と軽く注意するに留めた。

「あ、つーか他の本丸の長義とはじめて喋ったんだけど、めっちゃいいやつだった!」
「は? 俺が?」
「うんうん、すごくいい刀だったね。主と僕のことを褒めてくれたんだよ」
「……お、俺が……?」
「あとその後自分の審神者にあれしてたよな」
「主! それは本当に言っちゃだめなやつだからね、黙っていようね?」
「待て、あれってなんだ、俺が何をしたんだ?!」

 混乱する山姥切長義に「シュヒギムだったわ、ごめん」と田中が軽く謝る。そこから山姥切長義はこんこんと田中の口の軽さや普段から軽薄な態度が多いことを説教し始める。いつもの光景である。それを燭台切光忠が宥めるふりをしつつ、適当なところで執務室から出て逃げていった。説教をはじめると誰よりも長いのが山姥切長義である。周りにいる者は誰であろうが巻き込む性質を兼ね備えているため、田中を叱り出すと周りから人が消えるのはしょっちゅうだ。

「も〜分かったって。母さんみたいなこと言うなってば〜」
「母君みたいなことを言わせているのはどこの誰かな?!」
「え〜もうさんの長義はもっとこう、かっこいい近侍! って感じだったのに〜」
「俺に変わりはないんだが?!」

 田中は無自覚に山姥切長義を煽ることを言うのが玉に瑕である。今日も今日と手余計な一言で山姥切長義の機嫌を余計に損ねた、はずだったのだが、山姥切長義はふと「、どこかで聞いた名前だな」と呟く。顎に手を当てて視線を斜め上へ向け、何かを考え始めた。その様子に田中は内心「ラッキー」と呟いてから「なんか気になんの?」と首を傾げる。

「その俺≠ェ所属している本丸番号は覚えているかな?」
「覚えてないけど書類に……あったあった、○○国第○番本丸だけど?」
「○○国第○番本丸…………ああ、思い出した」
「え、有名な人? 俺めっちゃ馴れ馴れしくしちゃったかも」
「政府本部の調査班というのがあってね。そこに所属していた俺≠ェ出向した先の本丸だよ」
「調査班ってあれか? 政府所属の刀剣男士がそれぞれ一振ずつ配属されてて、出陣したり遠征したりしていろいろ調べるやつ」
「そう。洞察力や思考力が求められる部署でね。基本的にすべて優秀な個体で編成されているんだ」

 山姥切長義曰く、その調査班に所属していた山姥切長義は、数多くの彼らの中でも判断力に優れていたという。かつて自身も政府に所属していた田中の山姥切長義も何度か世話になったそうだ。
 そんな優秀な個体であった山姥切長義が、なぜ本丸所属になったのか。田中がそう素直に疑問を述べる。政府所属から本丸所属に異動することはそう珍しいことでもない。特に特命調査を担当する刀剣男士は、調査を完了した自身が担当した本丸へそのまま異動することが常。田中の山姥切長義もまさにそうであった。はじめての聚楽第での調査完了の証として山姥切長義が本丸に顕現した。
 けれど、特別優秀な個体であればそもそも特命調査の監査官には選ばれない。そのまま政府所属として飼い慣らすのが定石だ。戦場に出ることもそうそうなく、刀を振るう機会も少ない。政府所属の刀剣男士の中にはそれを不満に思っている者も少なくはない。

「理由は俺の知るところではないが……本人からの強い希望だったとは聞いているよ」
「へえ、やっぱ戦いたかったのかな?」
「さあ。そういう好戦的な個体には見えなかったけれどね」

 見事に山姥切長義の説教を回避した田中は「ふーん。そっか」と言いつつ立ち上がる。今のうちに執務室を抜け出して広間に行くつもりである。山姥切長義も田中と一緒に立ち上がって歩き始める。未だ例の山姥切長義のことを考えているらしい。
 二人が執務室に出た瞬間、通りがかった髭切が「主〜今日ははんばーぐだよ〜」とにこやかに言う。田中が「マジ?! もしかして陸奥守作?!」とテンション高めに駆けていく。その肩をガシッと山姥切長義が掴む。びくっと震えた田中が恐る恐る振り返ると、にっこり笑った山姥切長義が「走るな、と何度言わせれば分かるのかな?」と首を傾げる。

「全く。また有耶無耶にされたのも腹立たしいが……とりあえず夕餉の後は執務室で書類整理だよ」
「え、えー……初任務から帰ってきたところなのに……」
「任務時間一日未満は任務とは言わないよ」
「暴論だ!」

 びーびー騒ぐ田中を「はいはい」と躱しつつ、二人で並んで広間へ歩いて行く。山姥切長義はちらりと田中を見て、小さく笑った。山姥切長義も元々は政府所属。本丸異動は基本的に勝手に政府職員により振り分けられるものだが、この本丸の山姥切長義は違った。政府本部のデータ保管局にいた山姥切長義は、本丸異動の話があるがどうしたいか、と選択を求められた。それなりの役職についている者にだけ与えられる選択だ。
 山姥切長義ははじめ、政府残留を選ぶつもりだった。そこまで戦いを求めているわけではないし、データ保管局での仕事はそれなりにやりがいもあった。己が刀であることは忘れてしまいそうだったが、そうだとしてもそれなりに充実していたからだ。
 実際政府職員には辞退を申し出た。けれど、どうしても特命調査だけは練度が足りている者があまりいなかったため、代理で行ってほしいと言われたのだ。渋々特命調査の代理監査官として任務に就き、そこではじめて田中の本丸と出会った。田中の本丸の刀剣男士は、正直まだ駆け出しで抜けているところが多かった。田中自身もまだ若く、経験が浅いために判断ミスをすることも何度かあった。けれど、彼は絶対に無茶をさせない審神者だった。一人でも刀装が破壊されれば撤退したし、軽傷者が出ても必ず撤退した。おかげで調査は長期に及んだが、その代わりに田中は小判や資材を惜しみなく調査に使っていた。その甲斐あってギリギリで調査完了。山姥切長義は渋々ではあったが優の査定をした。
 そんなかなりギリギリの調査だったにも関わらず、刀剣男士の誰も審神者への文句を言わなかった。通信が切れたあとも文句を言うことはなく「無事に終われてよかった」と笑い合っていた。その後で、部隊長を務めていた乱藤四郎が「これで主さんの評価が上がるといいけどなあ」と言ったのだ。刀剣男士側からすれば苛立ちがつのる戦いだっただろう。まだいけるところで撤退の繰り返し。見ている山姥切長義でさえもイライラしたというのに、刀剣男士たちにそんな様子は一切ない。しかも、士気が下がることもなく審神者のために一生懸命だった。
 刀剣男士というものは、意外と冷徹な刀が多いものである。主として認めなければ刀解を避けたい者は上辺だけの忠誠を平気で演じるし、戦えればそれでいいと言う者は特に忠誠を誓うこともない。審神者という存在をそこら辺にいる人間と同等に内心で扱う者も珍しくはない。正直なところ、山姥切長義がそうであった。政府職員の誰にも特別視した人間は一人もいなかった。信頼している者もいなかった。だから、本丸への異動には消極的だったのだ。
 遠い過去の歴史で主がいた山姥切長義も、内心は信頼できる主という存在に憧れはあった。けれど、刀剣男士は審神者を選べない。審神者が刀剣男士を選べないのと同じことだ。万が一、信頼できない人間の刀剣男士になったら、一生上辺だけ主と慕う生活が待っている。それを避けたくてまだ仕事にやりがいを感じる政府に残るつもりだった、けれど。
 どうしてあの刀剣男士たちはグズグズな審神者のために一生懸命なのか。仕事ができる、戦の知識が豊富、刀の扱いを心得ている。そんな要素が一つも見えない審神者を、どうして主として慕うのか。他の刀剣男士より多くの人間と関わった山姥切長義は一つの可能性を抱いていた。人間としての性格。それが優れた審神者なのではないだろうか、と。刀を大切に扱う。それは、山姥切長義が最も好ましいと思う人間の性格でもあった。
 興味が湧いた。山姥切長義は政府への特命調査の報告をした際、前言を撤回した。今回担当した本丸へ異動する、と。自分がそんな選択をするなんて夢にも思っていなかった山姥切長義だったが、なぜだか確信があった。きっとあの本丸の審神者は間違いない、と。

「蓋を開けてみればまだ十年ちょっとしか生きていない子どもだったけれどね」
「え? 何?」
「いや、なんでもない」

 まだ幼さの残る田中は、山姥切長義からすれば赤子同然だった。大した知識もなければ大した能力もない。けれど、山姥切長義はがっかりはしなかった。ちらりと見渡した執務室。彼が使っている筆入れはぼろぼろで、とても子どもっぽいデザインのもの。机に置いてある時計も子どもっぽく古びたデザインのもの。本丸の誰もが山姥切長義の顕現を喜んでくれ、特命調査をギリギリの優で終わらせた田中を褒めた。それに田中も照れくさそうにしつつ「俺は戦ってないから乱たちを褒めろって」と刀剣男士を褒める。
 ああ、彼は、良い人間だ。山姥切長義はそう一目で思い、今日までこの本丸で生活してきた。その間に近侍に任命され、気付けば「本丸の母か」とツッコミを入れられるほど、田中の世話を焼いている。

「そういえば進路はどうすることになったのかな。何も聞いていないのだけど」
「あ、うん。審神者一本にすることにした!」
「……ご両親はなんと?」
「公務員みたいなもんだからいいよって」
「君のそれは遺伝なんだね……」

 フットワークが軽すぎる。山姥切長義はそう苦笑いをこぼしつつ、ほっと胸をなで下ろした。学生審神者は中学卒業、高校卒業、大学卒業を期に引退してしまう者も少なくはない。審神者が引退になれば本丸は解体。刀剣男士たちは刀解されるか政府所属になるかを選ぶことになる。山姥切長義は田中が引退を選んだら、恐らく刀解を選択していた。

「俺がやめたら長義が泣いちゃうだろ」
「……泣かないよ。茶化す暇があるなら今日中に報告書は終わらせられそうだね」
「それは無理!」

 けらけら笑っているうちに広間に到着した。すでに夕餉の準備がほぼ終わっている。田中と山姥切長義はいつもの位置に腰を下ろした。「ハンバーグ久しぶり〜」と田中が嬉しそうに手を合わせる。「まだだよ」と呆れつつ配膳係の山伏国広からお茶を受け取った。
 現世任務には都合良く呼ばれただけで、正式な特殊任務の命はまだない。優秀な審神者に授けられる褒賞ももらったことがなく、本丸の成績は最高位は中の上。まだまだだ。まだまだ主はやれることがある。そうこっそり期待しながら面倒を見る日々は、政府で数字ばかり眺めていた日々より、やりきれないほどのやりがいがある。けれど、人間というのはどう転ぶか分からない。突然私利私欲に走る者もいれば、心が折れて立ち止まってしまう者もいる。だから、道を正してやる存在が必要なのだ。
 道標くらいいくらでも作ってやるさ。山姥切長義はそう、喉の奥で呟く。そんなことなど知らない田中が近くの席に座った者たちに任務での話を楽しげにしはじめた。燭台切光忠も近くへやって来て、わいわいと賑やかな空間ができあがる。こういう穏やかな日々を、割と待ち望んでいたのかもしれない。山姥切長義はそう思いつつ「ほら食事の時間だよ」と集まった者たちに諭す。なんて平和なのか。そう少し呆れはしたけれど、終わらないでほしい。そう素直に思いながら、一口お茶をすすった。



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